短編集37(過去作品)
まだこのあたりにも自然が残っている頃で、駅の乗り降りもそれほどではなかった。今でこそ快速電車が停車するほどであるが、当時は列車の乗り降りもまばらだった。しかしそれでもここ十年でよくもこれだけ人が増えたものだと感心してしまう。
最初に店に入った時、マスターや他の客が異質に見えた。
――自分の求めている空間とは少し違うのだろうか――
とも考えたが、とりあえず席に着いた。まわりを見ながら席についたが、皆こちらを見ている。だが、不思議とその視線にいやらしさを感じなかった。
誰も何も喋らない。おのおの好き勝手なことをしているのだが、ほとんどの人が本を読んでいる。
――うるさくないから、いいかも知れない――
小説を書くにはちょうどいい環境である。学生時代は真剣に小説を書こうと思えば、耳栓持参でなければできなかった。しかし喫茶「ユニーク」では容易に自分の世界を作ることができるはずだ。店の中で随所に見られるマスターのこだわりを感じていると、いいアイデアが浮かんでくるような気がする。奥のテーブル席に腰かけて、さっそく執筆を始めたのだった。
それがきっかけだった。毎日とまでは行かないまでも、二日に一度は喫茶「ユニーク」で執筆をしていた。不思議なもので、執筆をしていると仕事にもリズムが出てきて、今までよりも仕事がはかどるようになった。
――時間を短く感じる――
充実した時間を過ごしていると、時間が経つのがあっという間だ。気がつけば日が暮れていたり、会社での八時間が、まるで六時間くらいに感じられる。
喫茶「ユニーク」がクラシックを流していることも嬉しかった。
会社の人で喫茶「ユニーク」の存在を知っている人はいない。そして喫茶「ユニーク」の常連で三郎と仕事上での付き合いのある人もいないのは、三郎にとって好都合だった。――ここでの自分が本当の自分なんだ――
と思いたいのだ。
本当の自分を出せる場所を持っている人が、自分のまわりにどれだけいるだろうか。三郎が意識し始めたのも、小説を書くようになってからだろう。それまでは、その日がうまく乗り切れればいいという程度の生活をしていた。
突然、不安に陥ることというのは本当にあるものだ。足元が急になくなり、奈落の底に突き落とされるような感覚を想像すると、できないこともない。
以前には想像を絶するものとして、想像することを怖がっていたのか、それとも、思い浮かべたとしても、結局想像の域を出ることができないことが無駄に思えてしまっていたのか、しようとしなかったといった方が正解かも知れない。
人と話をすることが自分にとってメリットのあることなのかと考えるようになるほど、あまり人と話していなかった。普通に話していると、
――楽しいから話している――
ということを当たり前のごとく受け止め、意識しなくなってしまう。
今度は人と話さなくなると、自分が人と話しているのが義務のようなおかしな感覚に陥ってしまう。話さないことがエネルギーの消耗を防ぐといわんばかりである。
うちに篭ってしまうからだろうか。
人と話さずに本ばかり読んでいたこともあった。就職してすぐの頃、仕事を覚えるまでは孤独感に苛まれ、同期入社の連中は皆違う部署へと配属になり、話をする暇も気力もなくなってしまっていた。
一番暗かった時期かも知れない。しかしある意味楽しい時期でもあった。何をしているか分からない中でも、忙しい毎日を充実して過ごしている気分になれる。一人で本を読んでいる時間がゆとりを与えてくれることに満足していた。忙しい時があるからこそ感じることのできる充実感、それを思い知った時期だったのだ。
その時の読書が、再開した執筆活動に大いに役に立つことは、簡単に想像できる。
――この時のために読んでいたんだ――
と思うことで、執筆にも有意義な時間を与えてくれる。
当時はまだ喫茶「ユニーク」を知らない頃で、もっぱら自宅で読んでいた。喫茶「ユニーク」を見た瞬間に、創作意欲がよみがえってきたといっても過言ではないだろう。
喫茶「ユニーク」の中のレイアウトが、芸術的に見えた。すべてのものが計算されて置かれているように思え、目の前に広がる光景が、幾何学的であればあるほど、次第に広く感じられるようになってきた。
最初に比べれば数回来ると倍くらいの広さに感じられるようになっていた。それがピークで今度は次第に小さく感じられる。そして、止まったところが本当の感覚だった。
それに気付いたのは執筆を始めてから、まわりを見るようになってからである。人が歩いている時であっても、車がひっきりなしに行き交う時であっても、感じる広さに変わりはない。色や明るさの違いがあるだけだ。それはきっと、執筆という目的のために観察しているからではないだろうか。そう感じるようになると、創作もはかどっていった。
表を見てから店内に目を移すと、どうしても薄暗く感じられる。薄暗さが狭さを感じさせ、執筆の際にあまり中を気にすることはなかったが、ある時を境に変わってしまった。
中が急に明るく感じられるようになってきたからである。
狭く感じていた店内は、いたるところで影が存在し、薄暗さに拍車を掛けていたが、明るくなればなるほど、影の存在を感じるようになった。
――明かりがあるから影があるんだ。当たり前のことじゃないか――
自分に問いかけるが、まさしくその通りである。
そんな中、影を感じない女性を発見した。どうやら常連のようで、見たような記憶があるのだが、それほど印象が深くないのはなぜだろう。ショートカットで、いかにも明るくスポーツでもやっていそうな女性が目の前にいて印象が薄いなど三郎らしくない。いかにも彼女は三郎のタイプではないか。今度は気にして見るようになる。
相手も三郎の視線には最初から気付いていたようだ。だが、三郎を気にする様子もなくただコーヒーをおいしそうに口に持っていっている。その仕草は雰囲気とは反対に、清楚な美しさを醸し出している。そこが他の女性と違うところで、一目惚れに近いものが感じられた。
今までに一目惚れなどあまりなかった三郎だが、
――この人以外に、これほど愛する人は今後現われないだろう――
という人が必ず現われると信じていた。いつ、どんなシチュエーションで現われるかなどまったく分からないが、それが一目惚れというものだろう。そしてその一目惚れは何度もあるものではない。だからこそ貴重なのだ。
どちらからともなく声を掛けた。
「あ、あの」
お互いに声を掛けておいて顔を見合わせてしまった。そこから先の言葉が出てこないのだ。顔を見合わせると、別におかしいわけでもないのに、思わず吹き出しそうになる。彼女も同じようで、その仕草がまた可愛らしい。中学時代に戻って、中学生と恋愛をしているような胸のときめきを感じる。
大学時代の頃の夢と同じで、自分が社会人であるという自覚はあるのだが、いる場所が中学時代という不思議な空間を想像している。相手はまだ大学生くらいなのだろう。あどけなさは世間ずれしていないことを証明していた。
作品名:短編集37(過去作品) 作家名:森本晃次