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彷徨う記憶

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――自分だって、子供の頃があったはずだ。その時に子猫を拾ってきて、飼いたいと考えたことがあったはずだ――
 と思ったが、口に出すことはなかった。これを口にすれば、きっと親と喧嘩になるはずだ。なぜなら、親が答えられない質問をしているからだった。
 その時はしてやったりだと思っても、長い目で見れば、何のメリットも自分にはない。最後は大人の子供に対しての優位さで押し切られてしまってはどうにもならないからだ。最終手段に訴えられてしまっては、子供に勝ち目はないし。大人としても最後の太刀を浴びせることは、パンドラの函を開けてしまったと言っても大げさではないくらいに後味の悪いものとして残るだろう。
 それが、親子の確執になってしまうことは否めない。実際に少しずつではあったが、親子の確執が見えていて、いつ亀裂となるか、そうなれば、一触即発を招いてしまいそうで恐ろしかった。
――でも、子供の頃に、そこまで考えていたとは思えないけどな――
 と子供の頃を振り返るが、実際には自分が感じているよりも、当時は大人の考えを持っていたのかも知れない。そう思うと、大人になるにつれ、
――だんだん大切なことを忘れていっているのではないか?
 と感じることがあったが、その思いが現実味を帯びてきているようで、仕方がない。
 整理整頓ができない性格と、子供の頃の捨て猫を拾ってきた時の経験を思い出すことで、里美を家に連れて帰えろうと思ったのだ。一人暮らしなので、誰に遠慮もいらないし、防音効果は最初から部屋選びの最優先項目だったことが今となっては、ありがたいと思ったものだ。
 それからしばらくは、里美との蜜月生活が始まった。少しの間だけだったが、部屋の中に染みついた里美の匂いは、抜けることがなかった。
 落ち着いてから里美は仕事を始めた。最初は部屋代として浩司に渡していたが、
「そろそろ一人暮らしができるんじゃないかい?」
 というと、里美は少し寂しそうな表情になったが、
「うん、そうだね」
 と答えた。
「別に別れるわけではないから、心配いらない。僕はいつでも里美のそばにいるよ」
 というと、表情が明るくなり、里美は無言で大きく頷いた。
 里美は余計なことを口にしない方だった。言葉がいらない場面をしっかりと心得ている。ただ、それは浩司だから分かることなのかも知れない。他の人が相手だと、
「何を考えているのか、よく分からない」
 と言われることだろう。
 里美が一人暮らしを始め、浩司は自分の部屋がこれほど広いものだったのかと、思い知らされた気がした。
――大は小を兼ねる――
 というが、この場合は当てはまらない。広さは冷たさを含み、湿気を含んでいた。誰かがまだいるような感触を残したまま孤独な状態なのだ。一人取り残されたという思いは究極の寂しさを残し、部屋に充満していた。こんな気持ちになるだろうということは覚悟はしていたが、想像以上の冷たさに、部屋を広く感じてしまう自分の感覚が恨めしかった。
 寒く冷たい部屋だったが、なぜか里美の匂いだけが残った。甘く女性独特の匂いだが、その中に、動物的な匂いも残っていた。
「やっぱり、捨て猫だったのかな?」
 などと、くだらないことを口に出して言ってみたが、口に出したのは、自分の心の中では絶対否定の思いがあったからだ。敢えて声に出すことで、もう一人の自分に思いを気付かせ、否定してもらいたいという気持ちの作用が働いたのかも知れない。
 そのせいか、この部屋には今までに誰もつれてきたことがない。それは女性だけではなく、男もであった。
――この部屋を知っているのは、里美だけなんだ――
 それも、この部屋にいた時の里美であり、一人暮らしを始めてからの里美ではない。一度一人暮らしを始めた里美がこの部屋を訪れたいと言ったことは一度もない。この部屋に来たいと里美に言われたら。浩司は一体どうするのだろう?
――連れてくることはないかも知れないな。何とか理由をつけて、来させないようにするだろう。もうこの部屋も里美も、一緒に住んでいた時とは違うんだ――
 これは浩司にとっての「けじめ」であった。このけじめは、浩司だけではなく。里美にも味わってもらわなければならない。里美はもう味わっているかも知れない。時々里美が「けじめ」という言葉を口にするが、味わっている証拠ではないだろうか。
――ただ、里美の中のけじめとは何なのだろう?
 浩司との関係ではないようだが、それは浩司の知らない里美の一面ではないだろうか。
――そういえば、僕は里美の何を知っているというのだろう?
 一人でいるところを拾ってきて、一緒に住まわせた。一緒にいれば情が湧いてくるというが、情が湧いてくることはなかった。もちろん、愛し合っている時は、里美しかいないことが最高の幸せだと思っているし、里美がいれば、他には何もいらないとさえ思えていた。
 里美には従順という言葉は似合わなかった。
――そばにいて、まったく違和感のない。まるで空気のような存在――
 だが、一たび身体を重ねると、
――痒いところに手が届き、自分の思考能力がなくなるほどの快感を与えてくれる女性――
 麻衣と一緒にいる時に、
――僕はサディストだ――
 と思わせるが。里美と一緒にいる時には、逆にされるがままであった。余計な力や頭を使うことなく里美のそばにいるだけが、一番の快感であった。
 下手に動けば快感が薄れていく。完全な減算方式。最初が百で、動くたびに百から減っていくのだ。どんなにじっとしていても、最後には七十残ればいい方だろう。動けばそれがすぐに半分以下になり、どんどん減っていく。ただ、ある程度まで減ってくると、ゼロに近づくことはない。微妙なところで残ってしまうのだ。
 ゼロになると、新しく生まれてくるものがあるはずなのだが、中途半端に残ってしまう。これほど辛いことはなく、まるでヘビの生殺しのようではないか。それでも我慢できる自分は、里美との相性がよく、されるがままになる快感を知っているからだ。それはそのまま自分にはサディストだけではなく、マゾヒストの気もあることを示していた。サディストとしての資質は麻衣だけに対してではないが、マゾヒストとしての資質は、里美に対してだけ見せる自分の一面であった。
 里美が浩司の部屋にいたこと、そして今里美と付き合っていることは、誰にも言いたくない。里美の存在自体を知られたくない。ひょっとすると里美という女性は、浩司の前だけに存在する人間で、他の人からは見えていないのかも知れない。浩司にとっての里美は、頭の中だけに刻み込まれた幻なのではないかと思えて仕方がなかった。
――余計なことを考えたらいけない――
 里美に対して疑問や存在の否定を考えることはやめにした。考えると里美は浩司の前から離れていくような気がするからだ。
――それでもいい――
 里美のことをあれこれ考えてしまって後悔の念を抱き始めると、すぐに浩司は自分の中で否定し、成り行きに任せるべく、それでもいいと思うのだろう。これは決して開き直りではなかったのだ。
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次