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彷徨う記憶

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 浩司が里美のされるがままになっていて我慢できるようになったのは、年齢のせいもあるかも知れない。それまでは、自分から行動を起こさないと我慢できないタイプだった。基本的には、自分から行動するのが浩司の性格なのだが、そんな中で、されるがままという快感を覚えられる自分がいることに気付いたのは、年とともに落ち着いてきたからなのかも知れない。
「浩司さんは、元々気が長い方なのよ」
 普段はあまり口を開かない無口な里美も、ベッドの中では積極的で饒舌だ。しかもその話はほとんどが的を得ていて、何度目から鱗が落ちる気分にさせられたか分からない。里美によって教えられたことも数知れず、それだけでも里美と知り合ってよかったと思っている。
 一人暮らしを始めた頃の里美は、何にでも興味を持っていた。まるで中学生の女の子のように感情をあらわにし、喜怒哀楽の激しさを表に出していた。行くところがないと言って泣いていた「捨て猫」ではもはやなくなっていた。自分が解放してあげたことで自分のことのように嬉しい気分であったが、少し自分から離れたような気がして一抹の寂しさがよぎったのも事実だった。
 里美の過去について、その時であれば聞けたかも知れない。その時の里美なら、笑って話してくれたかも知れないと思ったが、逆にせっかく明るくなった里美が、自分の一言で急に冷めてしまって、元のように無口で怖がりになってしまったらどうしようという思いもあった。
 今度は無口で怖がりなだけではない。完全に殻に閉じ籠ってしまうだろう。しかも一番大きな殻を形成する相手は浩司に対してである。
 ひょっとすると浩司以外に誰か拠り所になる人を見つけるかも知れない。それならそれで救われる気分になるが、男として、果たして耐えられるだろうか? それを思うと、浩司はとても里美に過去のことを聞き出す気にはなれなかったのである。
 ただ、後になって少し後悔した。
――あの時に聞いておけば――
 それは一度、里美がいなくなったことがあった時だった。仕事でどうしても我慢できない辛いことがあり、急にいなくなったのだ。一人で頭を冷やしたかっただけと言って、翌日には戻ってきたが。その時、
――里美の過去について少しでも聞いておけば、探し場所もあったのに――
 と思ったのだ。
 結局は、聞いていても何の手がかりにもならなかったが、その時の思いが頭に残り、それが後悔になってしまった。一度ならず二度までも聞きそびれてしまうと、三度目はないも同然だった。
 里美が浩司に内緒で、病院に通っている時期があった。それは神経内科で、浩司は何度、そのことについて里美を問い詰めようとしたか分からない。病院に問い合わせたとしても、病院側の答えは決まっている。
「個人情報なので、お話するわけにはいきません」
 肉親でもない者に、病院が答えるわけにはいかない。もっとも、肉親であっても、病院は答えるだろうか? それほど個人情報というのは大切なものである。
「守られるはずの個人情報がこんなに恨めしいなんて」
 これでは守りたい相手を守ることができないと、地団駄を踏みたくなるほどだ。浩司は自分の力のなさを痛感し、じれったさに、唇を噛み切ってしまうほど噛みついていた。
 それでも一度苦しさを通り超えると、感情が発散されるのかも知れない。逃げに回ったと言われればそれまでだが、里美のことを気にするあまり、自分の感覚が次第にマヒしていった。里美のことをあまり気にしなければいいんだという結論に達したのだが、そう簡単に割り切れるものではない。
 その頃、今まで気にならなかったまわりの女性の目が気になり始めた。
――なんて不謹慎なんだ――
 里美のことを気にしていると言いながら、実際はまわりの女を気にしてしまう自分に口惜しさを感じる。だが、これも人間らしさだと思うと、納得がいくが、里美はいつもと変わらず、静かな雰囲気を保っていた。
 そのうちに今まで浩司にだけ見せていた態度が少し鳴りを潜めてきた。他の人への態度と変わらなくなってきたと言った方がいいのか、浩司にとって、辛く悔しいものだった。
 こうなれば、浩司は何も遠慮することはない。他の女性と仲良くなることも否めないと思い始めると、今まで見えてこなかったものが見えてきたようで、急に明るくなった視界が新鮮に感じられるようになった。
 本当は、里美の態度は、里美にとっては苦渋の選択だった。そうでもしないと、自分が分からないことに押し潰されてしまう。その時、里美は自分が記憶喪失であることを、やっと自覚していたのだ。
 里美に対して遠慮のあまり、過去のことを何も聞かなかったことが、浩司にとってあだになった。少しでも聞いていれば、里美が記憶喪失であることが分かっていただろう。しかも、聞かなかったことで、里美に自分が記憶喪失であることの発見が遅れてしまったのだ。遅れれば遅れるほど、本人にとって気が付いた時に訪れるショックの大きさも分かるはずないだろう。
 里美は、病院通いしていることを浩司に話さなかったのは、浩司に話すと余計な気を遣わせてしまうという工事への配慮と、余計な気を遣わせてしまうことで、自分の中に背徳感を持ちたくないという思いとが交差していたからだろう。きっと後者の方が大きかったのではないかと浩司には感じられた。なぜなら、自分がもし里美の立場であれば、きっと後者ではないかと思うからだった。
 浩司には、相手に対して気を遣うことを嫌うところがあった。自分一人の痛みをまわりの人に知られたくないという思いからである。足が攣ってしまった時、なるべくまわりの人に知られたくないと思う。それは下手な同情をされ、心配そうな表情を浮かべられると、必要以上に痛みを感じるからである。できるならそっとしておいてほしい。心配そうな表情は、余計本人に不安感を抱かせるからである。
 里美のことが分かったのは、里美を追い詰めて白状させたからではない。病院で話をしてくれるはずはないということは分かっているので、病院に聞く選択肢はありえない。後は本人に問いただすしかないが、それも傷口に塩を塗り付けるようで、できるわけもない。何とか、里美が話しやすい状況を作ってあげることだけしかないが、それはしばらく知らぬふりをしておくしかなかった。
 待っている時の苦痛は、
――自分のことだったら、これほど苦しむことはないのに――
 と思わせるほど、辛いものだった。確かに自分のことであれば、ここまで辛いことはないだろう。では、その違いは何なのか、言わすと知れている。
――痛みが分からない――
 あくまでも、親身になったとしても、自分のことでなければ痛みは分からない。それだけに人が苦しんでいる姿を見るのは辛いものだ。理由が分かっても、痛みが分からないと、下手な助けは却って相手に対してためにならないだろう。
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次