彷徨う記憶
裏路地から入ったことがないくせに、裏路地から風俗街の横を通り過ぎる時は、必ず風俗街を見つめていた。最初は意識してだったが、今では無意識にである。日課となってしまっては、頭の中で、勝手に無意識のスイッチが入ってしまうのだ。それだけに意識はなく、時々見たことにハッとすることがあるのだった。
里美と出会ったのは、そんな時だった。
その日の雨は冷たかった。昼間は天気がよく、気温もそこそこに上がっていたので、まさか雨が降るとは思えなかった。朝、天気予報を見た時、
「昼間はいいお天気ですが、夕方からの突然の雨にはご注意ください」
と、女性の気象予報士の話だった。
「気象予報士の女の子って、どうして皆可愛いんだろうな」
と、いつもと同じ疑問を頭に浮かべながら、漠然と見ていた天気予報である。
「天気予報も、結構当たるものだな」
と感心していたが、それは今までの的中率を頭から消したうえでの、その時に感じた思いをそのまま表現しただけだった。
いつものように風俗街を横目に見て、二番目の路地を通り過ぎようとした時、風俗街と反対側の柱の陰に、一人の女性が佇んでいるのが見えた。それが里美だったのだ。
里美は、最初、浩司に気付いていないようだった。底冷えする雨の中、ずっと佇んでいたのだろう。まるで寒さに震える子猫のように、背筋や肩を丸めて震えている。
震えている様子は、近づく前から感じていた。里美が浩司に気付いた瞬間、震えがピタリと止まり、相手が浩司であることに気付くと、また身体を小さくして、震えはじめたのだ。
近づくにつれ、里美が子猫に思えてきた。やっと浩司に気付いた里美の表情は、一瞬こわばったが、すぐに人懐っこい表情に変わり、浩司を安心させた。雰囲気とのギャップから人懐っこい表情に見えたが、実際には目は潤んでいて、何かを求める顔色は、青ざめていたようだ。
表情の確認にも困難なほど薄暗い中で、よく潤んだ眼だと分かったものだ。よく見ると、顔色がカメレオンのように少しずつ色が変わっていく。右側は赤いのに、左側が青く、次第にどちらかに色が偏っていくように移動している。実に気持ち悪さを感じさせる光景だった。
だが、それもすぐにどうしてなのか分かった。分かってしまえば、
「何だ、そういうことか」
と感心したが、色が変わるのは、浩司の背後に立ち並んでいる風俗街のネオンサインが原因だったのだ。
「見事なグラデーションだ」
広告デザインには少し興味のある浩司だったが、さすがに風俗街のネオンサインには興味を示さなかった。その割りに毎日気になってしまうのは、心のどこかで風俗を軽視していたのかも知れないと、思わざるおえなかった。
ネオンサインに照らされ、グラデーションを自らの顔に刻んだ里美の表情への第一印象は、やはり気持ち悪さだった。しかも表情はかなり暗く見えている。性格的に暗い女性であることは分かったが、なぜか浩司は里美が気になって仕方がなかった。
気になって顔を見ていたが、歩みを止めることはなかった。里美も浩司に気が付いてから、浩司が目の前を通り過ぎるのを目で追っている。身体は震えているにも関わらず、しっかりとした視線である。どこか挑戦的な表情に見えるのに、すがるような目をしているようにも思えた。次第に挑戦的な視線よりもすがる目の方が強く感じられるようになり、思わず、浩司は歩みを止めた。
「しまった」
声に出したかどうか、ハッキリとはしないが、表情には明らかに狼狽が表れていたに違いない。
この時、浩司には里美と、ここまで長く付き合うことになるとは思っていなかったが、その場で終わるような思いもなかった。気になってしまったが最後、「しまった」という声にならない言葉を発したのは、歩みを止めてしまったことに対してなのか、それとも、里美に対して感じた予感に対してのことなのか、すぐには分からなかった。
里美は誰かを待っているわけではなかった。ただそこに佇んでいるだけだったが。浩司を見つめる前は。風俗街のネオンを見ていた。
――まさか、風俗街への扉を開くつもりなのか?
と感じた瞬間、浩司の背筋がゾクゾクとした。何か暖かいものが流れてきたような気がしたが、次第に冷えてくるようにも感じられた。
――このまま放っておけない――
里美に声を掛けるきっかけになったのは、その思いからだった。
最初にどんな言葉を掛けたのか、覚えていない。それなのに、声を掛けた時に感じていた思いだけは思い出せた。
――捨てられたネコのようだ――
この思いが一番強かった。
ノラネコを拾ってきたような感覚なのかも知れない。声を掛けてから、話を始めるようになると、浩司の頭の中では優越感がみなぎっていた。それは、
――僕がこの可哀そうなネコを救ってあげるんだ――
という押しつけがましい思いであった。上から目線になってしまうのは仕方がないのかも知れないが、そこまで感じさせたのは、背後の風俗街から照らされているネオンサインが原因かも知れない。
「どうして、ここに?」
核心にはなるべく触れないようにしないといけないと思いながら、声を掛けていくつか質問したが、何も答えない。そこを敢えて核心に迫ってきいてみると、
「私、どこも行くところがないんです」
と、質問の答えではないが、初めての回答だった。里美はひょっとすると、この答えができる質問を待っていたのかも知れない。言いたいことを言えずに我慢することは、結構苦痛になるものであることは、浩司にも分かっているつもりだった。
お客を取っている女性にはとても見えない。全身の震えは怯えであり、お客を取っている女性であれば、いきなり自分が行くところがないとは告げないだろう。
浩司は、ありがちな質問をしたいとは思わない。聞いても、答えてくれないだろうと思うからだ。だが、どう対応していいのか分からない。里美が行くところがないと答えてくれたのも、浩司の質問に対して、ただ思い浮かんだことを答えただけなのかも知れない。ただ、本来なら切羽詰った状態であるにも関わらず、答えた時には、驚くほど落ち着いていた。まるで他人事に見えたくらいだ。
無言で、手を握った時、想像以上に冷たかった。
――いつから、ここにいるんだろう?
と思われるほど冷たかった。自分の手まで凍り付いてしまいそうな冷たさに、自分の顔がこわばってくるのを感じると、堪えていた震えが急に襲ってきた。それは寒さや冷たさからくるものではない。里美を最初に見つけた時に感じた震えだった。里美に近づくうちに次第に震えを忘れてしまったが、残っていた感触が、我慢していたことを感じさせず、その代わり、我慢によって引き起こされた震えの増幅だけが、時間を超越して現れた気がしたのだ、
震えは最初、大きなものだったが、次第に小さくなっていった。しかし、小さくなる過程で、小刻みな震えは、大きなものから、激しいものへと形を変えた。
子供の頃、浩司はどこの子供にも経験があるだろう、子猫を拾ってきて、密かに飼おうとしていた。親に言っても、
「捨てていらっしゃい」
と言われるのがオチだと思っていたからだ。