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彷徨う記憶

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 麻衣との待ち合わせの後、火照った身体を持て余しながら、麻衣は浩司から視線を逸らそうとしない。まわりから見ていると、どこか不思議なカップルに見えるかも知れない。無邪気で、鼓動の止まらない胸を誰にも知られまいとしながら、必死で大人びた態度を取ろうとする。それが浩司には滑稽に見えたが。可愛らしさから、いとおしさに変わっていく瞬間に思えるのだった。
 二人の食事は、麻衣が常連としている店だった。常連といっても、店の人と話をするわけでもなく、
――いつも通ってくるお得意様――
 という程度のものではないだろうか。それだけに浩司に対する好奇の目は尋常ではなかった。どうやら、麻衣にはその視線を感じる余裕などなかったかも知れない。ただ、自分が普段どんなお店に立ち寄っているかということを知ってほしかっただけなのかも知れない。
 浩司にも馴染みのお店があった。一軒だけではなく、数軒あるが、そのどこにも他の人を連れて行ったことはない。一人になれる空間を以前から欲していたので、その時々で新しいお店が増えていき、学生時代の頃から数えて数軒の馴染みの店ができたというわけだった。
 最近できた馴染みの店では、結構常連客と話をするようになった。しつこく話しかけられるのはあまり好きではなく、鬱陶しさから、邪険な態度を取ってしまうことも少なくなかったが、その店で話しかけてきたのは、一人の初老の男性で、自分が考えそうなことを先に言われてしまい、それでもイライラしてこないのは、その男性がまるで将来の自分を見ているようだったからだ。
――これが将来の自分?
 と、思うと正直がっかりだったが、次第に憎めない男性だと思うようになってくると、今度は自分から話をしてみたいと思うようになっていた。
 その頃にはすでに麻衣と知り合った後だったので、頭の中が麻衣一色だったところに、急に忍び込んできたその人は、実に新鮮な感じがした。
「君は恋をしているようだね」
 肯定も否定もできない問いかけに、ただ黙っていると、その男は微笑みながら、
「恋というのは、人にいうものじゃないって思っているかも知れないけど、そんなことはないんだ。自分を求める人がいて、自分も求める人がいる。素晴らしいことじゃないかね?」
 と、無精ひげに白髪混じりの髪の毛と、ギラギラした目線は年齢を若く見せるだけの力がありそうに見え、淡々と話す中で、説得力を伴うのも、納得がいくものだった。男性の言葉を感じながら、思い浮かべた麻衣の姿は、普段感じている麻衣とは、また違ったいでたちだった。
 とても真面目そうに見えない麻衣の姿が、目を瞑った瞼の裏で、生真面目な少女のように見える。はにかみを感じるが、それは淫靡なものではなく、少女のような清楚な雰囲気が醸し出されたからだった。
 麻衣が、旦那の話をするようになったのは、最近のことだったが、浩司には最初辛いものとなるだろうと思われたが、今では辛い思いをすることはない。
「僕は、結局、君の元旦那に勝てないんだな」
――交わることのない平行線――
 そう感じた時、年齢を思い浮かべた。年齢だけは絶対に追いつくこともなければ追いつかれることもない。そのことを麻衣に話すと、
「そんなことはないわよ。私が愛しているのは、浩司さんだけだから」
「じゃあ、どうして最近になって、元旦那の話を僕の前でするんだい?」
 麻衣に対して高圧的な態度に出ることのなかった浩司は、高圧的な態度に出られる自分に複雑な気持ちを抱いていた。元々嫉妬心が溜まってくることで、一気に爆発させる気持ちは、「発散」という言葉にふさわしかった。爆発は、発散の起爆剤である。ただ、最終目的が発散では、少々寂しい気もしていた。
 麻衣は、少し黙り込んだ。何かを言おうとしていて、なかなか出てこないのは、適切な言葉が見つからないというよりも、タイミングを計っているように思えていた。
「私の元旦那。事故で死んだの」
 衝撃的なセリフをあっけらかんという人が最近増えている気がしていた浩司だったが、重苦しい空気をわざわざ作り出して言葉に発するのも麻衣の性格なのかも知れない。言葉を選びながら考えている麻衣はじれったく見えるわけではない。どんな言葉を発するのか、麻衣の答えを待っている時間が長く感じられることもあれば、あっという間に過ぎてしまう。重苦しい空気に包まれたその時は、時間が長く感じられた。
 聞いてしまったことを後悔した浩司だった。聞かなくてもいいことを聞いてしまったと後悔の念がこみ上げてくるが、後悔が重苦しい空気と同調し、麻衣のもう一つの、浩司しか知らない麻衣が現れる。
――二重人格というのは、誰もが持っていて、親しい人にしか見えない種類の人格があるから、二重人格者は特定の人間にしか現れないのかも知れない――
 麻衣は続けた。
「私は知ってたんだ。最初から、事故で死んだって聞いた時、その助手席に誰が乗っていたかということは想像できた」
 麻衣の旦那を、新婚の頃に見たことがあった。とても浮気をするような人には見えなかったが、人は見かけによらぬもの。しかも、人は時間が経てば変わるものだという意識が強かった頃だった。ただ、旦那が麻衣の本当の姿を知っていたかどうかが、疑問だったのだ。
「旦那は君が知っていたことを、知らなかったのかな?」
「知っていたかも知れないわ。でも、まったく顔に出さなかった。元々プライドが高い人だったから、彼にも意地があったのかも知れないわね」
 プライドの高さが、麻衣との距離を一定に保っていたのかも知れない。麻衣にも負けず劣らずのプライドがあるが、麻衣のプライドは負けてはいけないというものであって、明らかに女性らしさだった。
 男性のプライドは、負けてはいけないという気持ちよりも、絶えず「紳士であることのプライド」だったようだ。紳士というのは、女性から見たものと、男性から見たものとでは、かなり見方が違っている。
 女性から見るものは、頼りがいがある男性というイメージで、男性から見ると、女性に対して優しい態度が取れる人だと思える。頼りがいのある男性は、同性に対しては気を遣うことなく自然に接することができ、まわりに人が寄ってくるオーラを持っている。
 麻衣にとって、旦那は「紳士」だったという。
「死ぬ前まで紳士だったのかも知れないわね。だからこそ、私はあの人との離婚を決意したのかも知れないわ」
「紳士のプライドというのは、どういうことなんだい?」
「それは女性から見て初めて分かるものなのかも知れないわ。だからあなたに話したとしても、完全には理解されないものなのでしょうね」
「じゃあ、僕には紳士のプライドが存在するように見えるかい?」
「いいえ、あなたには感じないわ」
「どうしてなんだい?」
「あなたの中にある優しさは、きっとあなたにしか分からないんだわ。私は分かっているつもりなんだけど、きっとそれは幻なのよ」
「どうして言い切れる?」
「私があなたしか見ることができなくなったから、一人の人を愛するということは、盲目になるということじゃないと思うの。盲目になってしまうと、私自身、自分のことが見えなくなるから……」
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次