彷徨う記憶
老人は頭を傾げた。確かに女子高生を見て何か反応している様子はない。ただ、見ているだけで、自分の子供の小さい頃を思い出していた。それは思い出したくないものだった。あれは自分が刑事をしている時に捕まえた少年で、確かスリの疑いがあるということで、現行犯連行されてきたのだった。
その時はまだ老人も若かった。家族のために一生懸命に働かなければいけないという意識が焦りになったか、やってもいない少年を犯罪者にしてしまった。その時の哀願する表情が、わざとらしく見えたからで、偏見がなかったはずなのに、頭から彼を犯人だと決めつけてしまっていた。
「彼の目が私には疑いのないものだという結論に導いた」
と、自分に言い聞かせたが、冤罪には変わりない。罪もない少年の人生を狂わせたことが一生の悔いになってしまった。
――定年になって忘れていたんだ――
今さら思い出してしまったのだが、忘れてしまっていたことを自分でも驚いている。
――現役の時は、一番忘れてはいけないことだと思ったのに――
自分を十字架に掛けていた呪縛は、定年とともに解き放たれた。自分で無意識に解き放したのだ。
「もう、ここらでいいだろう」
確かにそうかも知れない。今さら思い出さなくていいものを思い出したしまったのだ。老人は、少年を見てその時のことを思い出した。さらに言えば、その時の少年が、自分の子供の頃と重なって見えたのかも知れない。大人に対して反抗的で、いつも背伸びをしていた少年だった。だから曲がったことが嫌いで、警官になったのではなかったか。曲がった少年がいれば正してあげたいという思いが、警官の時に一番大きかった。それを刑事になっていつの間にか忘れてしまったのだろう。
――長いものには巻かれろ――
の理屈で、巻かれたことすら、意識がなかったのである。
その時の少年のことを思い出すと、浩司が悪いことができる人間には思えなかった。もちろん、思い出してしまったことでの贔屓目も幾分か含まれているのだろうが、やはり、自分が確認した目からは、力が感じられない。
特に女子高生を狙う隠微な目ではない。そう思うと、また老人は自分の昔が思い出された。
刑事と言っても一人の男。こちらの方が老人としては大きな呪縛であった。少年に対しての冤罪は重たいものだが、こちらの呪縛は深いものだと言ってもいいだろう。
電車に乗ると思い出してしまう。それはまるで麻薬のようなものだった。麻薬などという言葉を使うと、自己防衛だと言われても仕方がないし、刑事としては失格の烙印なのだろうが、魔が差したという意味では、誰にでも一度はあることなのかも知れない。
少年課の婦警から頼まれて一人の非行少女を公正させようと、説得したことがあった。その時は、殊勝にも素直に応じていたのだが、
「この私に意見するなんて」
とでも思ったのか、満員電車に乗るのを見計らって、一人の大人しい少女を近づけた。本当に大人しい娘が身体を密着させて誘うような素振りをしてきた。本当に魔が差してしまいそうになるのを必死に堪え、何とか耐えたが、後で自分への逆恨みだと知った時、信じられないほどの自己嫌悪に陥った。
実際に辞表までしたため、何度提出しようかと思ったか。結局は提出せず、
――この十字架は一人胸に秘め、あの世まで持って行こう――
と誓ったのだ。その時から、鬼刑事が誕生したのだが、彼女たちにとっては、逆恨みが火をつけたという意味では、何とも皮肉な結果となってしまったことだろう。これも定年迎えるとともに、墓場まで持って行こうと思っていた感情が薄れ、呪縛が解き放たれ、本能として忘れてしまっていたのだ。
そういう意味では、すでに老人となってから、鬼刑事の名をほしいままにしてきた現役時代とはすでに違っていた。孫娘に昔の顔を見られたくないという感情以前の問題だったのだ。
浩司には、その時に耐えた自分を感じた。表から見れば、無気力で、何も考えていないという感覚は、実は、一度以前に必死に耐えたことがあり、それが免疫となって顔に現れる。普通の男だったら、性癖が邪魔をして、感情を押し殺すことは難しく、犯罪に走ったことがある人間は再犯を繰り返す人が多いが、浩司のように免疫ができてしまえば、もう大丈夫だった。
――あの顔は大丈夫だ――
元刑事の勘というよりも、かつての自分を見ているようで、何よりもそのことは、本人である自分が一番分かっている。そう思うと、老人は浩司に対して、これ以上見る必要はないと思った。
そして、これ以上見てしまうと、その時の感情がよみがえってきて、自己嫌悪に陥ってしまう自分が怖かった。
――もうこの年になって、自己嫌悪に陥る必要なんてないんだ――
まさしくその通り、孫娘にも見せたくない。
自己嫌悪に陥ってしまうのは、それだけ老人が真面目な性格だからだろう。曲がったことが嫌いな性格が自分の感情と戦って、発熱状態を引き起こす。一番の治療法は、無理に熱を下げようとするのではなく、一度熱が上がるところまで上げ切って、その後に下げるのだ。そうしないと、元凶を取り除くことができないからである。
浩司に対しての老人の目が離れた時、浩司は一瞬、スーッと落ち着いた気分になった。
――おかしいな――
と思ったのも当然で、老人が浩司を最初に見つめた時のことを、浩司が意識していないからだ。
本当は分かっていて、無意識に気にしないようにしたために意識がないのか、最初から老人の目が気になっていなかったのか分からないが、浩司にとって老人からの呪縛が解けた時、身体を通り抜ける爽やかな風のようなものを感じたのだ。
ただ、それも、最初に何かがあって通り抜けたことは分かっていた。それが何かがすぐには分からなかった。
といって、後から分かるものでもなかったが、風がいきなり発生したものだという意識はなかったのだ。
老人は、孫娘にどう説明しようか考えた。彼女の思い過ごしだと思うが、果たしてそれで納得してくれるだろうか?
「おじいちゃんが、そういうなら」
と言ってくれればいいがと思って迷っていたが、案ずるより産むがやすしで、最後は正直に話せばいいという原点に戻った老人が話をすれば、孫娘はあっさりと納得した。
――私が考えているよりも大人なのかも知れないな――
と思ったのだ。
老人は孫娘が生まれた時のことを思い出していた。プレイボーイのように幾人の女性と付き合っていた息子が、その中で一人の女性が懐妊したと知らせに来たことがあった。
息子はあまり人に相談するタイプではなく、一人で抱え込む方だ。その中でも一人だけ相談するとすれば、父親だったのだ。
現役の刑事でありながら、息子には甘かった。いや、甘かったというよりも、性格が似ているわけではないのに、お互いのことが手に取るように分かるような親子だったのだ。
「隠したって、結局バレるだ」
後でバレた時のことを思えば、最初に話しておいた方がいい。後になればなるほど、腹立たしさに苛立ちが混じり、怒りを買う。
「もっと早く話してくれていれば、手の打ちようもあったのに」
というセリフは、言う方も聞く方もどちらに対しても辛いことであった。