彷徨う記憶
夢物語を二人は話している。これは誰かの夢の中で繰り広げられている光景を、まったく知らないはずの二人の会話を勝手に想像しているにすぎないはずなのに、実際には二人の中に通じるものがあったということは、ただの偶然として片づけられるものなのであろうか。
絵を見ていると、老人にとって懐かしい思い出が走馬灯のように駆け巡ってきた。
――私は、もう長くはないのかな?
過去の思い出がすべて美しいものとしてしか思えなくなると、死期が近づいてくるのではないかと、思うようになった。それは年齢的にも肉体的にも衰えが加速し始め、すべてにおいて、不安を感じはじめるからであった。
老いてくるにしたがって思い出というものには不安が付きまとうようになっていた。実際に過去にいいことがなかったという思い出ばかりが表に出てくるからだ。楽しかった思い出が表に出てくると、死期が近いという意識が強いからかも知れない。なるべく思い出さないようにしていたからに違いない。
麻衣の絵を見ていると、最初に見た時は、自分にまだ不安が宿っているのを感じていた。それは絵の中に自分がいることに気付いたからで、絵の中心にいるはずなのに、誰の目にも見えない。もちろん、自分にも見えないが、誰にも見えないわけではない。見えている人がいて、その人が老人の若い頃を探しているのかも知れない。
麻衣にも、最初は絵の中に誰かがいるなど想像もつかなかったはずだ。老人がいつも間にか後ろに現れたことで、絵の中にあった不自然さが何だったのかを分かることができた。それでも最初は漠然としてしか分からなかったものが分かるようになったのは、老人が、角度によって見えているものが違うということを指摘したからであった。
老人が、絵を見て安心し始めた時、麻衣は自分の作品に愛着を感じはじめた。ただ描いているだけのものだったが、愛着を感じると、それが絵に対しての自信にも繋がっていく。まだ、描き終わっていないのに、絵を描くのをやめようかと思っていた。それは、未完成である今が、一番の完成品に思えたからだ。これ以上描くと、隙が生まれてくるような気がして、将棋の最初に並べた布陣を思い起こさせた。
麻衣は、キャンバスを片付け始めた。それを見た老人は、優しそうな笑顔を浮かべ、
「うんうん」
と、頷いている。
そそくさと片づけを行っている麻衣を見ながら、老人は黙って立ちすくんでいた。手持無沙汰という感じでもなく、ただ見つめているだけで笑みが毀れてくる自分が微笑ましいと思っているに違いない。
「絵は完成したようですね」
「ええ、これ以上は手を加えるつもりはありません。未完成だと思うかも知れませんが、私にはこれが完成品なんです」
「分かる気がしますよ」
と言って、顎をさすっている老人は、優しそうな目で、麻衣を見つめていた。
そこに写っている絵には、先ほど感じた赤ん坊の親がいない絵ではなく、今度は赤ん坊だけがいない絵に変わっていたのだった……。
麻衣が里美と会ってからしばらくして、浩司の耳に、二人が時々会っているという話が飛び込んできた。二人を引き合わせたあの店に二人で顔を出すのだから、耳に入っても当然のことだった。むしろ、遅いくらいで、この遅さが実は致命的な遅さであることに、まだ浩司は気付いていなかった。
あれから、浩司は里美とは会っていなかった。里美が会うのを渋ったからで、浩司もそれ以上会うことを強要しようとは思わなかった。
里美に対して、抱きたいという欲はすでに失せていた。会ったからと言って、抱こうなどと考えるはずもないと思っていたのだ。それは里美にも分かっていただろう。だが、しばらくすると、今度は、里美の方から、
「実はお話があって、少しだけお付き合い願えませんか?」
と、電話で告げてきたのだった。
浩司は、一瞬、戸惑ってしまったが、断る理由も見つからず、会う約束をした。里美が指定したのは、麻衣を引き合わせた、あの場所だった。
里美は仕事が忙しいらしく、すぐには会えないということで、約束は五日後となった。それまでに、浩司が約束の場所に一人で訪れたのだ。どうしてその店を訪れようと思ったのか分からない。二人を引き合わせたところに、一人でノコノコ出向くのは、滑稽な行動でしかないように思えたからだ。
そこで、浩司は、麻衣と里美が時々出会っていることを聞いたのだ。世間話をしたつもりで、店の女の子が浩司に気軽に話したのだが、ビックリした店長に見咎められ、それ以上のことは話してくれなかった。浩司もそれ以上聞かなかった。聞いていれば、彼女を追い込む形になるし、彼女も店長から見咎められたのだから、それ以上の答えを期待できるはずもなかった。
「聞かなかったことにしといてあげようね」
と、彼女に言ったが、この場合の返答として、的確であったかどうか、浩司にも自信がない。こういう場合は、本当は何も言わない方がいいのではないかと思ったが、言ってしまったものはどうしようもなかった。
その場の雰囲気は決していいとは言えない。固まってしまった時間がその空間には存在し、これ以上いても仕方がないので、店を出ようと思った時だった。そこに二人の男女が現れて、固まってしまった空間を切り裂くように、店の雰囲気がガラリと変わってしまった。
いつもの浩司なら、その場所から一刻も早く立ち去りたいと思っただろう。だが、その日はその場を離れることができなくなっていた。金縛りに遭ったような感じだというのも理由の一つだは、二人の男女のどちらも、どこかで見た記憶があったからだ。
男性の方は、
――そう、確か里美に関係がある男だったと思うが――
里美の会社関係の男性で、見た目はまだ子供に見えた。それは浩司から見てではあるが、年齢的には二十歳前後であろうか。
女性の方は、その男と年齢的には同じくらいなのだろうが、実際には、もっと大人の雰囲気を漂わせている。微笑んだ時の妖艶な雰囲気は、それまでに知っているどの女性よりもあるが、ただ、浩司が付き合ってきた女性たちとは違った妖艶さがあった。
――僕なら、付き合おうとは思わないな――
単純に好みの違いなのだろうが、浩司とは、平行線のような気がしてしかたがない。他の女性と違って、彼女の妖艶な微笑みを受け入れるだけの度量が、自分にはないと思うのだった。
彼女は、自分を受け入れるだけの度量が備わっていない男性には、相手にならない気がしていた。少なくとも浩司には備わっていない。度量というのは、浩司の中にもあるのだろうが、違う種類の度量ではないかと思うからだった。
最初に会った時も違和感しか感じなかった。なるべくなら、二度と会いたくないと思った相手だった。確か、電車の中だったか、見たくもない光景を見たような気がする。弱者に対して容赦のない態度だったような気がする。
そのくせ、自分が女性であるということを武器にしていた。それは、男性を惑わすというよりも、自分が弱者だということを相手に示すためのもので、まだ、男性を惑わす態度を見せられた方が、随分と気分がいいことだろう
吐き気を催すほどの厭らしさに、気分が悪くなるほどだった。
――こんな女がまだいるんだな――
と感じるほどで、