彷徨う記憶
浩司は里美の中に、もう一人の女を見た。それは里美であって、里美ではない。二重人格と言えば言えなくもないが、浩司には二重人格だとは思えなかった。
――里美の中に、二人の女性が存在しているのであれば、二重人格なのだろうが、人格は一人なのだ。里美の人格の中に、もう一人がいるのだ――
と思うようになった。
もう一人の里美が表に出ている時も、普段の里美もそこにいる。葛藤が働き、自分を苛む里美がいるのだ。
もう一人の里美を浩司は分かって見ている。それが耐えられず、内に籠ろうとするが、それを表に出てきたもう一人の女は許さない。
だから、普段の里美を応援しようとする浩司に対して、もう一人の里美は、何とか自分に向かせようとするが、存在を知ってしまった浩司にはできることではなかった。
もう一人の里美は高杉に食指を伸ばした。
高杉は、浩司に比べて実直で性格は一本気だった。そのため、まんまともう一人の里美に心を奪われる結果になったが、浩司にはそのことが分かっていた。分かっていたからこそ、別れる気持ちになったのであって、それを分からせてくれたのが、複数の女性と付き合うことで身に付いた感覚だったのだ。
最初に里美と別れる決意をしたのも、高杉がいることで自分の出番はないと、肩の荷を下ろした気分になったからだ。だが、もう一人の里美も浩司の考えていることくらいは分かってしまうようだ。
もう一人の女性は性悪な性格だった。人間の心の奥底には、誰にでも持っている性悪な性格があって、時々顔を出したり、一度表に出してしまうと、おさまりがつかなくなったりしてしまうのだろう。元々の人間の性格は、誰も変わることはない。変わってくるのは、育つ環境が大きく影響していて。生まれながらに持っているものは、心の奥の性格ということになるのではないかと里美を見ている思う浩司だった。
だが、浩司は、そんな里美と結局別れることができない。それは、何か生まれながらに離れられないものが存在しているように思えた。
麻衣には、心の奥に潜むもう一人の女を垣間見ることができなかった。
――ひょっとすると、僕にだけ見えないのかも知れない――
本当に性格の合う相手には、もう一人の自分が見えないようになっている。それは、本人の本能によるものと、好きになった相手の見る目が一直線だからであろう。高杉の場合は彼の見る目が一直線であっても、里美と本当に性格が合っていないのかも知れない。もし浩司の考えが当たっているとすれば、高杉は被害者ということになる。
――そんな二人が本当に幸せになれるだろうか?
浩司は知らないが、高杉に祥子という女がいて、彼女が高杉に付きまとっている。それを知った里美は、本能的にもう一人の自分を表に出し、高杉を祥子の手から救ってあげようとしているのかも知れない。
だが、元々自分自身も浩司から捨てられようとしているという感情があるため、どうしても性悪な性格が顔を出し、高杉に応対してしまう。高杉は、
――天の助け――
のように感じたかも知れない。
少なくとも、もう一人の里美は、自分が高杉を救っているという気持ちがある。これは自己満足から自己陶酔を引き起こすに十分なものだった。それを普段の里美が感じ取ることで、
「私は、高杉君が好きなんだわ」
と思うようになった。
浩司への惜別の念はあるのだろうが、それ以外に知り合った相手の新鮮さに触れ、里美は次第に高杉に惹かれていく自分を感じていた。
里美と会った次の日から、麻衣はまた趣味であるデッサンを始めた。
天気のいい日が続いていたので、近くの公園に出かけて、昼下がりのデッサンをしていたのだが、
「ありゃりゃ、これは、また全然違う風景だね」
と、散歩をしていた老人から声を掛けられた麻衣は、ゆっくり振り向いて、ニッコリと微笑んだ。
「そうですか? 私は感じたままを描いてるんですけどね」
と、スケッチブックだけを見つめて言った。老人は、スケッチブックとその向こうに見える景色のあまりの違いに、驚いたのだった。
麻衣のスケッチブックには赤ん坊が描かれていた。優しそうな母親の腕の中で、静かに眠っている。まわりの光景も、どこか優しさが滲み出ているようで、微笑ましさすら感じられる。
「でも、なかなかの完成度ですな?」
と、老人が言うと、麻衣の表情が少し曇った。
「いいえ、まだまだ未完成です。ただ、このまま描き続けると、失敗作になってしまいそうで、怖いんですよ」
鉛筆を握る手が小刻みに震えている。
老人は真後ろから覗き込んだ。最初に斜め後ろから見た光景と、今度はまた違っていた。老人は、自分の目を疑うかのように目を指でこすったが、そこには赤ん坊の姿はなく、母親だけが、寂しそうに佇んでいた。
さらに、さっき感じたまわりの微笑ましさは完全に消え失せ、殺風景な雰囲気を醸し出している。先ほど感じた季節が春であるなら、今目の前に展開している絵は、冬であった。
「未完成というのは、どういうことなんですか?」
「家族が足りないんですよ」
確かに最初赤ん坊がいた光景にも母親しか映っていない。麻衣は父親がいないことを家族がたりないと表現したのであろうか?
真後ろから見た冷たさを感じた時、自分の身体が震えはじめたのに気付いた老人は、一刻も早くそこから遠ざかりたかった。だが、一瞬金縛りにあったようになり、身体が離れない。視線は、絵に描かれた女の右側、そこに集中してしまっていた。
――なぜなんだ? 絵に何かあるのか?
老人は、思考を巡らせようとしたが、まったく機能していないようだ。
すると後ろから声が掛かった。
「浩司さん」
思わず後ろを振り向いた老人、その瞬間に、金縛りが解けた。振り向いたその先には誰もいない。浩司というのは、確かに自分の名前だが、今はその名前で呼んでくれる女性は誰もいなくなっていた。
――孤独な老人――
若い頃には、たくさん女性と付き合っていたのも、今は昔の武勇伝。誰も自分のことなど覚えていないかも知れない。ただ、付き合っていた頃には、それなりに相手も自分も輝いていたことだろう。
それから、何度春夏秋冬が通り過ぎたことか。老人には、それぞれの季節が同じだけの回数訪れたようには思えなかった。春が十回なら、秋が十五回あったのではないかと思うほどであるが、かといって、季節が一足飛びに飛んでしまっていたり、一つの季節だけが、極端に長かったりなどという意識はない、あくまでも漠然と思い出すだけだった。
「もう、そんなことはどうでもいいか」
それは、自分と付き合った女性を思い出そうとしても思い出せない感覚に似ている。記憶の断片が、最近は毎日変わってきているようにさえ思えるほどで、
――毎日、再セットされている?
と、頭の中をメカニズムとして見てしまっていることに驚かされていた。
――僕の記憶の中で、デッサンをしている女性の後ろに立って見ている光景があったんだよな――
老人は、リフレッシュされた記憶を遡っていた。すると、絵を描いている女性の後ろから抱きしめたくなる衝動にかられたが、悲しいかな、すでに男性としての機能はなくなっていた。