彷徨う記憶
裏表のない性格など、本当はありえないだろう。裏があって表もある。裏の裏を見ようとするから表しか見えていない場合もある。浩司はそこまで利口ではないので、麻衣が浩司にそう思わせるようにリードしているのだろう、女性を甘く見ていると、自分でも気づかないところで操られていることがある。だが、浩司はそれでもいいと思った。
――麻衣がそれでいいのなら――
妊娠したのが麻衣でよかったと思っている。麻衣は浩司に対して従順だが、実は浩司も麻衣に対して従順なのだ。だからこそうまくいっている。その時々で、どちらを立てるか、お互いに暗黙の了解を形成していた。
麻衣にはそれがある。お互いに相手を立てる気持ち、そして甘える気持ち、それが意識の差として現れることなく繋がっていると、決して離れることなどお互いに考えることがなくなってしまう。
里美の場合には、いつもぎこちなさが間にあった。まるで油の切れた機械のようで、どこからかギシギシと音が聞こえてくるかのようだ。
それでもうまく噛み合っていた。それは里美に記憶がないというハンディを彼女が持っているからで、お互いにハンディと感じているから、引くところは里美の方しかなかったのだ。
引いたり押したりではなく、引いたり引かれたりの関係が里美との関係だ。力をお互いに出し合って相乗効果を生み出すという点では、はるかに麻衣と付き合っている方が求められる。
そこには大きなエネルギーが存在している。麻衣にできた子供は、里美からすれば、どんなイメージであろうか。ひょっとすると、里美が浩司の子供を宿したかったのかも知れない。
だが、浩司は思う。
――もし、里美が子供を望んだら、それは、自分の存在だけのためにほしがっているのではないか――
ただ、子供が自分の身体の中で大きくなっていくうちに、母性本能が芽生えてくるかも知れない。従順なところは感じるが、自分の身体から力を全部抜いて、委ねてしまいたいという気持ちにはなりきれない。余計な力が入ったままで生まれてくる子供は、果たしてどんな子供なのだろう? 里美は、麻衣を見ていて、自分に子供ができた時のことを考え、少し不安にも感じてくるのだった。
里美と麻衣の会見は、二時間ほどで終わった。内容のわりに、時間が掛かった気がしたが、内容が濃かっただけに、時間があっという間に感じられたのだろう。浩司の中にもいろいろと分かったことがあった気がして、収穫があったと言える。
その後、里美は一人でゆっくりと家路についたが、浩司と麻衣は、もう少し表の風に当たりたかった。その日は、ここ最近寒い日が続いていたのに、結構暖かく、何かが出そうに思うほど、生暖かい風が通り抜けている。
そういえば、里美と出会ったのは、雨の日だった。あの日は、急に雨が降り出して、最初に会社を出た時の天気が、今くらいだったのを思い出していた。
「あまりうろうろしてると、雨に降られるぞ」
「いいのよ、たまに雨の日にデートというのも乙なものよ」
と言って、麻衣はカバンの中から折り畳みの傘を持ち出した。浩司と違って麻衣は用心深いところがあり、さらに用意周到なところもある。折り畳みの傘を持っていることは、最初から想像できた。
「でも、お腹の子供によくないんじゃないか?」
「関係ないわよ。それよりも歩くことで健康的な生活を送れる方がいいと思うわよ」
「それもそうだ」
あまり歩くことが好きではなかった麻衣だが。子供が生まれると急に歩くことを始めた。やはり、母になるという自覚が芽生えてくるのだろう。
麻衣に比べると、里美は歩くのが好きだった。歩くことで何かを探しているように見えたのは、浩司の思い過ごしだろうか。ただ、歩くことで、逆に何かを忘れようとしているようにも思えていた。
――里美は、過去に何か嫌な思い出があるに違いない。だから記憶を失ってしまったのだろう。そして、今の里美は、その嫌な思い出を思い出していない。思い出しているとするならば、記憶を失ったままの演技などできるはずがない――
と、浩司は考えていた。
ということは、里美の記憶は、肝心なところがまだ空白なんだ。だから、記憶を取り戻したというには程遠い。里美が誰にも言わない理由が分かったような気がした。
――里美がこれほど完璧主義者だとは思わなかったな――
確かに石橋を叩いて渡るような慎重さが里美にはある。それでいて、いざとなると大胆さも兼ね備えている。
麻衣には大胆さはあるが、石橋を叩いて渡るほどの慎重さはない。では、二人のうちでどちらが大胆かと言われると、里美ではないかと浩司は答えるだろう。それは大胆さが慎重な性格の上に成り立っているものだという考えがあるからだ。浩司が里美に惹かれた理由の大きなものの中に、おおらかな性格が垣間見えたからだ。おおらかさは大胆さと几帳面さの一見会いまみえないものが同居していなければ生まれないものだ。それが懐の深さというものだろう。
里美には、懐の深さに母性愛を感じた。家庭的にあまり暖かさを感じたことのない浩司にとって、里美は母親に似たものを抱いていたのかも知れない。ただそれが完璧主義と結びついているとは言い切れないかも知れないと思った。
そういう意味では、麻衣の中にある暖かさは、おおらかさとは違っていた。ピッタリと身体に嵌っていく感覚は、まるでセックスを思わせるものだ。麻衣には浩司の痒い所に手が届くようなところがある。本人は意識していなくても、浩司にとっては意識させられる有難さだった。
――心地よさは里美にあり、まるで羊水に浸かっているかのようだ――
と、感じたのが母性愛である。
ただ、母性愛は、浩司にとって永遠なものであり、セックスで感じるような快感は、一時的ではないかと思ったことで、浩司は麻衣よりも里美に陶酔しかかった時期もあったのだ。
どれほどの期間だったか分からないが、浩司にはあっという間に過ぎたように思えた。里美にも同じだったかも知れない。それは二人の間にバイオリズムが存在し、ちょうど重なった部分を、お互い永遠だと思うほどの快感を味わっていた。おおらかさの中に、セックスで味わう、ピッタリと包み込んでくれる気持ちよさ。心地よさと気持ちよさの共有などありえないと思っていた浩司には、まるで目からウロコが落ちた感覚だった。
しかし、一度合体したバイオリズムは、今度は離れて行くだけだった。一度感じた永遠さが、こうも簡単に離れて行くはずはないと思えるのに、なぜだろうか?
お互いに、知ってしまった快楽を、他にも求めてしまうそんな時期があるのではないか。いや、何よりも、快楽があまりにも夢を見ているようで、その信憑性に、他の異性を求めることで、実際に浩司にとっての里美、里美にとっての浩司を確かめようとしたのかも知れない。
浩司は、麻衣を知り、他の女性も知った。最初に知ったのが里美でなければ、ここまで何人もの女性を愛したりはしなかっただろう。里美への思いはそのまま、女性というものを究極に求める気持ちの表れではないかと、考えるのだった。
浩司が里美に惹かれたもう一つの理由は、浩司が複数の女性と付き合うようになったことにも起因しているのは、何とも皮肉なことだろう。