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彷徨う記憶

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 浩司は二人の会話を聞きながら、里美のことだけを考えてみた。違和感は矛盾に繋がっている。矛盾は会話の中にあった。漠然と聞いているだけでは分からない。今日の会話の中だけで矛盾は考えられないからだ。
 だが、麻衣もどこかおかしいことに気が付いてるようだ。
 最初こそ、里美の答えをゆっくり待っている会話だったが、次第に質問が多くなり、答えを待つ前から次の質問を浴びせている。会話に違和感がなくとも、普通の会話であっても、これではパニクってしまい、答えがまともでなくなることは必至だった。
 質問を浴びせるたびに、麻衣は浩司を見た。浩司も麻衣の意図が分かっているので、アイコンタクトで、了解のサインを送ったつもりだった。それに対して笑みを浮かべる麻衣、これだけで二人の会話は成立していた。ここまでのアイコンタクトは最近になってできるようになったものだ。
――これでいいのね?
――ああ、君の好きなようにすればいいさ――
 声を出していれば、こんな会話だったに違いない。
 里美を見ると、孤立しているのが分からないのか、額から汗を滲ませながら、浩司を見ていた。哀願に近いまなざしだったが、敢えて浩司は無視した。
 今にも泣き出しそうな表情を見るに忍びず、意識して視線を逸らしたが。心の中が締め付けられる思いだった。この間までずっと一緒にいて、何ら違和感がなかった。
――いて当たり前、いなければ……
 と、浩司は自分に言い聞かせた。だが、ここで甘い顔は見せられない。
――里美を孤独にさせてはいけない――
 記憶がないということは、それほど浩司に対しては「武器」だったのだ。別に浩司が何かをして里美の記憶を消したわけではない。だが、浩司の中で、どうしても里美を手放すことができなかったのは。心の中に罪滅ぼしのような意識があったからだ。改めて考えれば、そんなものは存在しないのにどうしてなのか分からない。そこを麻衣も不思議に思っていたのだろう。
 里美に対して、自分の男を蹂躙している悪い女という意識を持っていれば、浩司が感じたような違和感を感じることができるのかも知れない。それを麻衣が証明してくれた。
――僕はどうかしていたんだ――
 と、里美に関してだけは思えてきた。
――里美は記憶喪失なんかじゃないんだ――
 本当にそれが証明されたわけではないが、限りなく事実に近いグレーゾーンであった。それを思うと、浩司が里美を今までのように見ることはできない。
「里美」
 浩司が、会話に一瞬声を掛けて、割り込んでしまった。
 麻衣も里美も我に返り、同時に浩司を見る。
「君は、本当に記憶を失っているのかい?」
 いきなり核心をついてしまった。さすがにこれには麻衣も驚いて、目を見張って浩司を見つめた。
「ええ。浩司さん、一体何を言い出すの?」
「あ、いや、僕の勝手な思い込みだった。すまない」
 そう言って、最初の言葉をいとも簡単に否定した。それに対してさらに浩司は、二人に恐縮して、
「ごめん、もう変なことは言わないよ」
 と、口を閉ざす素振りをした。
 麻衣はそんな浩司の表情に安心感を抱く溜息をついたが、里美がついた溜息は、まったく違っていた。
――何、余計なことを言ってくれるのよ――
 と言わんばかりだった。
 浩司は思った。
――ひょっとして、里美は、記憶喪失がウソだったことを僕が気付いていると思ったのかな?
 だが、浩司は再度、走馬灯の中の今までの記憶を掘り起こした。走馬灯の中には、麻衣とのものもあるが、里美とのことだけを思い出しただけでは、どうしても贔屓目で見てしまうので、全体から思い出そうとしてみた。
――どう考えても、最初はやっぱり記憶がなかったのに間違いはないんだよな――
 ということは、どこかの時点まで記憶がなかったのだが、途中から記憶が戻ったことになる。それも徐々にではなく、一気にではないだろうか? 確信はないが、浩司にはそう思えて仕方がなかった。
 里美にとって、浩司は心の拠り所であった。それには間違いないのだが、それなのに、記憶を失っているというウソをつき続けるのか、浩司には理解できなかった。何か浩司のそばにいたい理由があるのだろうか。
 ひょっとして、里美の記憶は完全に戻っているわけではなく、途上なのかも知れない。そして記憶を取り戻すカギを握っているのが浩司ではないかと里美が思っているとすれば、浩司から離れたくないのも伺える。
――ということは、里美は記憶を取り戻したいんだ――
 記憶を取り戻してしまうと、今まで持っていた新たに出来上がった新しい記憶が消えてしまうことを恐れるものだが、それを恐れないということは、記憶が残ったままで、さらに新たに過去の記憶で埋めようというのだ。
――危険な気がする――
 と、浩司には、一抹の不安があった。
 里美が記憶を取り戻したとして、どうしてそれを教えてくれたかったのだろうかと考えたが、里美の引っ込み思案な性格で、記憶が戻ったことにより、急にまわりが取って返したように態度が変わってしまうことが嫌だったのかも知れない。
 記憶がないままいれば、少なくとも浩司には嫌われることはないという女心だったのかも知れないが、そのことが、里美を苦しめたのかも知れない。時々、いつもと違う里美がいたのを思い出したが、浩司は、そんな里美が好きだった。いつもの里美を愛しながらも、雰囲気のまったく違う里美にも惹かれていた。どちらかというと、もう一人の里美に対しては従順だったと言えるだろう。里美の中に、正反対の相手を浩司は見ていた。それが次第に怖くなってきて、別れを考えていたのだった。
 同じ身体の中にまったく正反対の性格を見ることがある。表に出てくるのはどちらか一人、それぞれに、浩司は自分だけを愛しているように思う。同じ身体でも性格がここまで違うと、身体の反応もまったくの別人、恥じらいを押し殺すように控えめないつもの里美、もう一人は、恥じらいを表に出すことで、大げさに自分を見てほしいと自己中心的でもあるかのような主張の強い里美を見ることができる。
 浩司は、もう一人の里美を見つけた時、
――僕は、マゾヒストだったのかも知れない――
 と感じた。
 もう一人の里美が浩司を見ると時、それは、普段の浩司が麻衣に浴びせる視線に似ていた。その時、麻衣のことなど知るはずもない里美に同じような雰囲気を味あわせるのは、里美が浩司の性格を見抜き、浩司に会うもう一人の女性を作り上げているのではないかと思うことで納得に近づくことができる。
 浩司の視線によって、相手は自分の性格を変えられる。浩司はそんな特技を持った女性を好きになったのだ。
 好きになった女性がたまたまそんな技巧を持っていただけなのかも知れないが、偶然とは違うのかも知れない。浩司の中にある、滲み出てくる性格が、美のような女性を引きつけるのかも知れない、
 麻衣の場合は、裏表のない性格だ。これ以上分かりやすい性格はないと思わせる彼女は、まわりの人からは、分かりにくいと言われているようだ。
――どこが分かりにくい?
 と思うのだが、それは、麻衣が巧みに自分の性格をコントロールできるからかも知れない。
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次