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彷徨う記憶

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 と感じたが、見下ろされている状態で、表情をまともに変えることもできず、引きつった顔になっていることは想像できた。
 静寂の中で早鐘のように胸の鼓動が交錯する中、見えない稲妻が一瞬の雷光を伴い、あたりの雰囲気とは一線を画したエリアを形成していた。そんな中で、やっと席に着いた里美を見ると、今度は人が変わったように小さく見える、背中を丸め萎縮した姿は、威風堂々とした先ほどの態度とは、まったく違っていたのだ。
「初めまして、里美です」
 萎縮したままの里美が先に口を開いた。その間、視線は浩司と麻衣を行ったり来たりしていて、少しだけ、麻衣に対して長く見ているように思えた。だが、浩司には里美の中では、麻衣を見ている時間が、自分を見るよりも相当長く感じられているのではないかと思うのだった。
「こちらこそ、初めまして。私が麻衣です」
 お互いに苗字を名乗らないのはなぜなのかと浩司は思ったが、この場ではどうでもいいことだった。ただ、麻衣が自分の名前を言う時に強調していたのが、少し気になっていた。
「麻衣さんは、浩司さんのお子さんを身ごもっていると伺いましたが、本当なんですか?」
 いきなり本題に入る里美だったが、その様子は萎縮していた。萎縮しているからこそ、余計なことを聞くよりも、いきなり本題に入った方がいいと思ったのかも知れない。時間が経てば経つほど、感じていた不安が解消されるわけではなく、さらに膨らんでいくからだ。
「ええ、子供を宿しています。そろそろ四か月に入ろうかとしていますが、無事に育ってくれています」
 その言葉を聞いて、里美は嘲笑したかのように見えたが、気のせいだろうか。
「それはよかったですね。子供を産むというのは、かなり精神的にも肉体的にも疲労しますからね。でも、その後育てることの方がもっときつい。私はそんな気がします」
 他人事のように話していたが、浩司には、その口調がまるで経験者の喋り方に見えて仕方がなかった。里美の中に時々感じていた安心感は、母性本能の表れではなかったと、その時の里美の様子を見ていて思うようになっていた。
 それを麻衣も悟ったのか、
「里美さんは、まるで自分が子供を産んで育てたことがあるようなおっしゃり方をなさいますが、私の気のせいでしょうか?」
 いかにも麻衣は挑戦的だった。
「ご想像にお任せしますは、私はそんなことはないと思っていますが、記憶のどこかに子供の残像が残っているのも事実なんです」
 浩司と麻衣は、お互いに顔を見合わせた。行動パターンは同じだが、考えていることはまったく違っている二人だったが、お互いの顔を見ても結論が生まれるわけでもなく、却って頭の混乱を招いていた。
 注文したコーヒーで喉の渇きを潤すが、声を出そうとすると、喉の奥に渇きによる痺れを感じ、まともに声が出せないように思えた。それは浩司だけではなく、里美も麻衣もだった。里美が特に冷静に話をしているように聞こえるのは、喉の痛みを最小限に食い止めながら話をしているからだ。声のトーンの違いこそあれ、元々トーンの高い麻衣でさえ、かなりオクターブを落として話をしないと厳しい状態だった。
 浩司は声を出せないでいたが、何とか振り絞るように、
「里美には本当にすまないと思っている。だけど、里美の記憶が少しでも戻るように僕たちもできるだけ協力したいんだ。それは麻衣とも話をしている」
 横で麻衣は浩司をじっと見つめながら、二、三度、
「うんうん」
 と頷きながら、里美の方を振り向き、今度は大きく頭を下げた。謝罪の気持ちから出たものだった。
「里美さんの記憶って、どこまであるんですか?」
 麻衣が話題を里美の記憶に変えた。話題をすり替えたというよりも、元々麻衣が里美に会ってみたいと思った大きな理由を口にしただけだった。
「そうですね。少しずつ思い出してきているように思うんですけど、暗礁に乗り上げたかのように記憶が固まってしまうんですよ。するとそんな時に限って、以前に思い出していたはずのことが、少しずつ消えていくみたいなんです」
「じゃあ、今の記憶が少しずつ消えていくということではないんですね?」
「そうですね。そういう傾向はありません」
「そうですか。私は記憶について少し調べたことがあるんですが、思い出すたびに、消えていく記憶もあると聞いたことがあります。そしてその時は思い出したことが消えていくわけではなく、記憶が亡くなってから、新しく生まれてきた記憶が断片的に消えていくって聞いたんですよね。それだと結構記憶を呼び起こすのって、勇気を必要とすることではないかと私は思うんです」
 麻衣は見かけによらず研究熱心だ。今まで浩司から聞いていた内容を麻衣なりに分析し、いろいろ調べたに違いない。もっとも自分に大きな影響があると思ったから調べたのであって、それだけ、里美の存在を気にしていたということだろう。
――それにしても、いつの間に調べたんだろう?
 麻衣に子供のことを告白されてからは、ほとんど一緒にいた。もちろん、会社で仕事している時は一緒にはいられないが、それ以外は一緒だった。
――妊娠する前から、気がかりだったのかも知れない。そこまで私は麻衣に気を遣わせていたのだ――
 と、浩司は麻衣の真剣な横顔を見ながら考えた。麻衣は正面から里美を見つめ、もうその頃には、喉の痛みもなくなったのか、声はいつもの麻衣に戻っていた。
 麻衣が研究熱心なのは分かっていた。それは、麻衣がたまに見せる「負けん気」に現れていた。自分中心で、マイペースな麻衣ではあったが、人に負けることを極端に嫌った。人からバカにされるのは、それほど嫌ではないという。
「だって、人をバカにする人ほど、自分のバカさ加減を知らないのよ」
 と、言って決して相手のペースに合わせようとはしない。マイペースであるということは、己を分かっていないとできないことで、相手のペースに乗らないことも大切だ。それ以外にも、相手を知ることで、吸収できるものがあれば、体裁など関係なく、吸収するくらいの気持ちが大切だ。
 麻衣と里美は、それからしばらく記憶についての話をしていた。浩司も少しくらいは入り込んだが、二人の会話に突っ込めるだけの知識はなかった。里美もだいぶ研究しているようで、心理学的な話から、医学的な話まで、話に花が咲いていた。
 浩司は、話の内容よりも二人の態度、特にそこから垣間見られる主導権、さらには優劣関係まで見ようとしていた。主導権は麻衣が握っているようだが、優劣関係に関しては、どちらが優なのか、分かりかねていた。主導権を握っている麻衣が、里美の返事に詰まってしまうシーンが何度も展開されたからである。
――里美が頭がいいのは分かっていたが、この状況で質問されて、テキパキと返事ができ、的確なタイミングでの返事でもあった。麻衣でなくとも、誰でも唸ってしまいそうになるというものだ。
――おや?
 浩司は二人の会話を聞いていて、何かおかしな感覚に襲われるのを感じた。会話は問題なく進んでいるのだが、どこかに違和感がある。それは浩司でないと分からない矛盾のようなものであろう。麻衣も里美も何も感じていないように話を続けている。
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次