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彷徨う記憶

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 麻衣の影響だということを、里美は分かっているだろうか。浩司を通じてでしかまだつながることのない二人が、浩司の知らないところで繋がろうとしている。それは、知らないと言いながらも、浩司が大きな影響力を持っていることをハッキリさせることであった。
 しかもそのことに浩司は気付き始めていた。ひょっとすると、浩司だけではなく、他の男性にも言えることなのかも知れないが、潜在能力はあっても、それを生かすためには相手が必要だ。浩司には、麻衣がいて、里美がいる。他にも付き合っている女性がいるが、他の女性ではそこまで感じることはできない。
 浩司が、麻衣と里美の板挟みになっていることから、いろいろ想像しているのだろうが、実際の二人は、まだ会ってもいないのだ。それなのに、浩司は自分の想像が、ある程度当たっているように思えてならない。もちろん、根拠があるわけではないが、言えることとすれば、歴史が好きだという二人の認識を考えての想像だった。特に里美には、歴史認識の中に、失われた記憶を解明するすべが隠されているように思えてならない。麻衣との会話の中で、解明されていくのであれば、それはそれでいいことだと思った。
 浩司は里美の記憶が戻ることを複雑な気持ちで考えていた。
 里美の記憶が戻り、過去の記憶の中で、浩司に対してよりも、さらに深い思いが存在していたとして、麻衣を選んだ浩司としては。後ろめたさが少しでも消えるのではないかと思う。ただ、それは一抹の寂しさを伴うもので、今考えているよりも、その時になってみれば、想像もつかなかったほど辛く悲しいことを感じているかも知れない。
 そう思うと、里美の記憶は、「パンドラの箱」に思えて仕方がないのだ。
――決して触れてはいけないもの――
 そのパンドラの箱を自らでこじ開けてしまってもいいのだろうか。麻衣の笑顔と、里美の悲しげな表情が走馬灯のように駆け巡る。まったく対照的な表情が特徴の女を同時期に愛してしまった浩司は、これ以上ないほど幸せな男であり、幸せと背中合わせの爆弾を抱え込んでいるのかも知れない。
 浩司の想像はあらかた当たっていた。
 待ち合わせには、浩司が麻衣を伴い、そして、里美が一人でやってくることになっていた。いつもここで待ち合わせる時は、里美が先に来ていて、浩司が後からくるのが定番になっていた。今回は、浩司が違う女性を伴ってやってきたのだから、店の人は大いに驚いたことだろう。浩司に対して、どう対応していいか苦慮したに違いない。
 さらに、浩司ともう一人の見知らぬ女性が、親しく話をしているならいざ知らず、一言も話さず、ただ奥のテーブルで座っているだけだ。しかもそこは、いつも里美と待ち合わせをする場所、不思議な空間が広がっていたことだろう。
 無言の空間を作るのは、この店では珍しいことではない。元々、この店は単独の客が多く、浩司が好んで探している「隠れ家」的な様相を呈したお店であった。実際に、最初この店を利用していたのは浩司で、「隠れ家」の一つだったのだ。そこに里美を連れていき、二人の間での「隠れ家」を作った。最初から浩司は里美との仲を、「お忍び」のようなものだと考えていたのだ。
 そう考えるように仕向けたのは、里美の態度だった。確かに里美は記憶喪失で、最初は意識がなかったにも関わらず、里美と一緒にいることで、浩司も次第に里美に染まっていった。元々出会いからして、普通ではなかった。行くところがないからと言って、浩司にすがってきた時のインパクトは衝撃的だったのだ。
 麻衣は、落ち着かない様子だった。見ていて、できればこの場から立ち去りたいという雰囲気が漂っているのが分かる。しかし、一旦自分で決めたことを自分から覆すことを最大の恥辱だと考える麻衣には、そんなことができるはずもない。きっと浩司に哀願してくるに違いないが、浩司の方とすれば、当事者本人なので、哀願されてもどうしようもない。中立の立場でなければいけないはずだ。分かっているはずなのだが、身体の震えが止まらない麻衣を抱きしめてあげたい衝動に駆られるのを、必死の思いで耐えているのが辛い浩司だった。
 約束の時間を十分過ぎても現れない里美に、浩司は次第に心配になってきた。
――会う約束をしたが、いざとなると、足が竦むのかな?
 と考えたりもしたが、いざとなると肝が据わるのが、里美であった。そこが、麻衣とは違うところだ。今麻衣の肝が据わっているように見えるのは、確かに開き直りもあるだろうが、それよりもお腹に新しい命を宿しているということが大きいのかも知れない、女性は強いと言われるが、命を宿した麻衣も、浩司が思っているよりも強くなっているだろう。ただ、それでも浩司を通してしか知らない里美に対しては想像以上の不安が掻き立てられる。想像以上の不安が自分の中のキャパを超えれば、開き直りが解放され、不安だけが増幅されて残ってしまうのかも知れない。麻衣の気持ちは浩司も何となくであるが分かる。寄り添いたいのなら、いくらでも寄り添わせてあげたいというのが本音だった。
 そろそろ一度連絡を入れて、所在をハッキリとさせないと、麻衣が精神的に参ってしまうと考えていた浩司だったが、
「すみません、お待たせしました」
 と、どこから現れたのか、里美が目の前に立っていた。拍子抜けしたように里美を見上げる浩司と麻衣。もはや浩司には、里美を叱責する気分ではなかった。時計を見ると、約束の時間より十五分遅れ、
――そうか、十五分が限度か――
 と、待ち時間と麻衣の精神的な部分を考えて、浩司はそう思った。
 それにしても悪びれた様子のまったくない里美は、いつものように冷静に見えたが、それは浩司と決別し、すでに他人であるということを身体全体から醸し出させているかのように見えた。浩司には寂しく感じられ、麻衣はそんな里美を不思議そうに見ていた。少なくともその日の麻衣は、普段の麻衣ではないことだけは確かだった。
 悪びれた様子のない里美は、その場に立ち尽くしていた。その様子はまったく隙のない仁王立ちに見える。その様子が浩司にも麻衣にも、叱責が感じられ、最初からペースをかき乱された気がしていた。
――目の前にいる里美は、もう僕の知っている里美ではないんだ――
 と思うと、寂しさ以上に、これからどう接していっていいのか、分からなくなってしまった。
 冷静な顔をじっと見ていると、時々、目が笑っているのを感じた。その瞬間、ゾッとしたものが背中を駆け抜ける感じがして、浩司も麻衣以上に震えあがってしまっていた。麻衣はどうしているのかと横目で見ると、顔面は蒼白になっていたが、震えが止まっているように見えた。その表情は挑戦的で、さっきまでの麻衣とはまったくの別人になってしまったかのように見えていた。
 浩司は、震えを抑えながら、麻衣の肩に手をやり、落ち着くように促した。その時に麻衣が浩司を振り返ったが、その表情は冷静になっているようで、
――これから、この女と対決なのよ――
 と言わんばかりに、浩司を見つめていた。それを見て浩司も、
――僕も腹を据えないといけないな――
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次