彷徨う記憶
それは、父親としての思いに、麻衣が今感じている母性本能のようなものが分かってきたからなのかも知れない。今まで、自分が親から受けてきたような態度を、自分の子供には感じさせたくないという思いが働き。自分の親が、
「反面教師だ」
という思いに至った。
麻衣と一緒にベビーカーを押して、笑顔で買い物に出かけるイメージまで頭に浮かぶ。驚いたことに、すっかり母親の顔になっている麻衣の姿が、浩司には鮮明に瞼の裏に浮かんでくるのだった。
それを思うと、自分の中で感じていた「懐かしさ」には、子供に対してだけではなく。麻衣に対しても感じていたのだ。
浩司が麻衣にとって、これからどれほど大切な存在なのかということを、麻衣は知らないかも知れない。先に浩司が知ってしまったのは、麻衣の身体には一つの命が宿っているからだ。
女は子供ができると変わるというが、男も子供の顔を見ると変わるという。まだ顔を見ない間にこれほどの想像が浮かんでくるのだから、実際に生まれたらどうなるのだろうか? きっとこれ以上変わることはないのではないだろう。先に感じたということは、感じなければ、最悪の決断を、麻衣にしていたかも知れないだろう。
麻衣が里美と会う日がやってきた。最初、麻衣は里美と会ったら、何を言おうかと、いろいろ思いめぐらせていた。ほとんどが嫌みであったが、嫌みもたくさん思い浮かべると、次第に、嫌みが消えてくるようなおかしな気持ちになってきた。
――私は何を言いたかったんだろう?
麻衣は、里美を目の前にすると、何も言えなくなってしまいそうな気がした。その理由は、
――もし、私が里美さんの立場だったら――
という思いが働いたからだ。
今まで、麻衣は人のことよりも、まずは自分のことだった。
――自分のことを大切にできないのに、他人を大切にできるはずはない――
というのが、麻衣の考え方だったのだ。
だが、里美のことを考えていると、その考えが薄れてくるのを感じた。会って話をしたこともない相手なのに、前から知っていたような気になってきているからだった。浩司という人間を中心に、自分や里美がいると思うからで、当の浩司のことを考えても、麻衣は里美に辛く当たることができないと思うようになっていた。
しかし、同情ばかりしているわけにはいかない。人に同情したために、自分が不幸になっては仕方がないからだ。そのためにも、けじめをつけるという意味でも、里美に会う機会としては、今がちょうどいいのかも知れない。
「里美さんは、避けて通れない相手なんだわ」
里美の記憶が戻るのであれば、それが一番いいことに違いない。麻衣は、単純にそう思っていた。しかし、浩司は違う。
――もし、里美の過去に、何か思い出したくないような何かがあるのであれば、無理に思い出すことはない――
と思っていた。それは里美に対しての思いやりであるのと同時に、彼女を守ってあげられるのは、自分だけだという思いが、浩司の中にあるからだった。麻衣との考え方の違いは、男と女の違いというべきであろう。
それは、まだ浩司の中に、里美を好きだという思いがあるからで、物事を単純に考えがちな麻衣でも、浩司の中の考え方は分かっていた。
「好きな人のことはよく分かるんだわ」
というのも、ある意味単純な考え方によるものなのかも知れない。
里美と浩司がどういうところを好んで利用しているのか、見てみたい気持ち反面、怖い気もした。まるで敵陣に乗り込む戦国武将の気持ちだった。
麻衣は、女性の中では珍しく歴史が好きだった。
いや、数年前に歴史が好きな女性がブームになったことがあったが、麻衣もその時に歴史に興味を持った口である。いろいろなことに興味を持ち、その中でどれだけが継続されるか、あまり多いわけではない。ただ、歴史への興味は、長続きしている方だ。
愛が歴史に興味を持ったのは、戦国時代である、ゲームなどでもいろいろ出ているが、戦国武将が結構、「イケメン」に描かれているのが、麻衣の興味をそそったようだ。ゲームだけではなく、戦国武将グッズにも興味を持ち、通販で購入したりしていた。
歴史に興味を持つことで、少し考え方が変わってきたところは少なからずにあった。浩司にもそのことが分かっていて。浩司も歴史が嫌いではないので、たまに歴史の話になると、激論を戦わせることも少なくない。
浩司はそんな麻衣が好きだった。歴史に関しては、里美も興味を持っているようで、ただ、里美の場合は麻衣が興味を持っている時代とは違い、もっと昔に遡る。
飛鳥時代から奈良時代に掛けて興味を持っていた。実に地味で、意外な時代であった。人に言わせると、
「玄人好みの時代だな」
というに違いない。浩司もその時代にはあまり興味はなかったが、里美と話をするようになって、興味を抱くようになっていた。
「私の記憶を取り戻す術があるとすれば、意外と好きなものや、嫌いなものを掘り起こしていくと見つかるかも知れないわね」
と、まるで他人事のように、里美が言ったことがあった。里美とすれば、
――そう簡単にはいかないわ――
と思っていたかも知れないが。浩司とすれば、
――里美には、自分の過去を思い出そうとする意志があって、そのやり方も分かっているのかも知れない――
と思わせた。
さらに、好きな時代に、里美の記憶を取り戻すキーポイントがあるような気がして仕方がなかったのだ。
戦国時代が好きな麻衣は、一つの危惧があった。
――徳川家康が、二条城で、豊臣秀頼に会見して時――
それは、麻衣と里美のシルエットを見ているようで、何を意味しているか、麻衣には背筋に冷たいものを感じていた。
飛鳥時代が好きな里美は、聖徳太子の時代あたりから、奈良時代あたりまでの戦乱に興味があるという。戦国時代のような、群雄割拠ではなく、大陸の影響により、日本の国自体の体勢が、定まっていない。統一という言葉には程遠いという意味では戦国時代も同じであるが、大陸から攻められるという意味で、頻繁に遷都を起したりすることで、混乱が深まっていったが、里美は宗教の違いによって、考え方の統一が図れないことで、起こる革命に興味を抱くと言っていた。
大化の改新もその一つで、絶対勢力に対する一人の人間のエゴが引き起こしたとも言われているが、大陸との平等外交を行っていたことで入ってきた大陸文化や宗教に、我慢できない連中のクーデターに他ならないともいう。
大化の改新で、引き起こされたクーデターは、実は日本の発展を百年遅らせたのだという説もあるが、里美はその説に賛成のようだった。
「どの時代にもエゴや嫉妬で戦争になったり、クーデターが起こったりするものだけど、どうしても避けられないのが、宗教の問題だと思うんですよ。特にあの時代は、世の中が混乱していて、宗教に頼る人が多かっただろうけど、特に昔からの日本にあった宗教からすれば新興宗教は、邪教にしかすぎないんですよね」
今の世の中でも、胡散臭い宗教は蔓延している。一人のカリスマが引き起こす大事件もあったりするくらいで、現代の方が、余計に新興宗教を煙たがる。