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彷徨う記憶

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 麻衣には、浩司が一人だけになりたいと思って馴染みにしている店を教えているが、里美には一切教えていない。本当は逆ではないかと思うのだが、もし何かあって、やってくるとすれば、里美の方だと思ったからだ。
 麻衣は耐えることができる女性だと思っている。それだけに、麻衣が開き直って、別れを考えてしまったら、説得はほぼ無理に近いだろう。それに比べて里美は、あまり耐えることを知らない女性であり、なぜそのことに気付いたかというと、自分が記憶喪失であることの自覚さえ、すぐには浮かばなかったくらいである。
 楽天家というわけではない。悪いことはなるべく考えないようにしようと思っているだけで、考えてしまうと、自分が重圧に耐えられるかがまったく分からない。
――そのあたりが、里美を記憶喪失にした原因なのかも知れない――
 もし、麻衣と里美、どちらかが男だったとすれば、二人が付き合うというようなことがありえるであろうか?
 里美が男の場合を考えてみたが、浩司が見ていて、里美の男はイメージが湧かない。却って麻衣が男なら、さぞやダンディであろうと思われた。素直に自分を表現する力は、実は女性よりも男性の方が強いのではないかと浩司は思っている。
 麻衣の部屋に懐かしさを感じるのは、少女趣味の部屋の中に、感じる柑橘系の香り、大人の雰囲気を醸し出しているのは、男性的なホルモンが部屋の中に漂っているからではないだろうか。
 里美の部屋を訪れた後、麻衣の部屋に行ってみようと思うことはあっても、麻衣の部屋を訪れた後、里美の部屋に行ってみようとは思わない、麻衣の部屋で疲れ果ててしまうのもその理由であるが、麻衣の部屋を出た瞬間、頭を切り替えることができなくなってしまうのだった。
 そんな時、浩司は自分の部屋にさえ帰るのが嫌になったりする。麻衣は浩司を送り出した後、まっすぐに家に帰るものだろうと思っているだろうが、一度馴染みの喫茶店に立ち寄らないと気が済まなくなるのだった。
 麻衣の家から一番近くにある馴染みの喫茶店は、夜になると、バーの様相を呈している。夜の常連の客、昼は昼の常連客がいる。昼中心の客は、夜にも顔を出すことがあるが、夜の客が、昼に顔を出すことはほとんどなかった。店の雰囲気というよりも、時間の感覚が支配している空間に、自分が存在しえるかを、考えているのだ。浩司は昼中心の客なのだが、夜に来ると夜の顔になっているということが、他の客、特に夜の客には、分からないらしい。
 里美の家を訪れても、里美を抱かずに帰るのは初めてだった。次の日に、麻衣の部屋でたっぷり麻衣を愛してあげて、浩司は、一人になれる喫茶店で一息つこうと思った。前の日に、里美を抱けなかったこと、そして、妊娠している麻衣を抱くことの複雑な心境、浩司は今までにない不可思議な心境に見舞われていた。
 その日の麻衣は異常なほどだった。
 浩司にしがみつき、
「お願い。愛して」
 を、連発だった。
 愛し合いながら、何かを訴えるのは、麻衣に特徴ではあったが、涙を流しながら、ここまで懇願することはなかった。まるで、別れようとする相手を必死で引き留めているような気持ちさえ感じられた。
 妊娠している麻衣の身体を気遣わなければいけないという気持ち、さらに、すこしずつではあるが、妊婦の様相を呈している女に対しての性欲の微妙な低下など、本能によってどうしようもない感情が、表に出ていないとは言えないだろう、
 その気持ちを麻衣が感じ取ったとしても不思議ではなかった。麻衣も勘が鋭い方だ。いや、勘が鋭くなったのは、浩司と一緒にいるからだ。知り合った頃の麻衣は、ここまでではなかった。勘の鋭さは浩司に対してだけなのかも知れないと思うのだった。
 その日、いつもであれば、麻衣を愛した後、ゆっくりしているのだろうが、浩司は身体のほてりが戻ると、そそくさと、麻衣の部屋を後にした。自分でも分からない今のやるせない気持ちを、一人になることで、何とかしたかった。そのままいたら、鬱状態への入り口を見られてしまい、鬱状態に入り込むのを防ぐことができないと思ったからだ。本来の鬱状態への入り口は、一人の時であり、また鬱状態を回避できるとすれば、一人の時しかありえないだろう。もっとも、回避というのは、不可能に近いと思ってはいるが……。
 浩司は、ぐったりしている麻衣をその場に残していくことに、後悔を抱いていたが、あえて、そのままにしておいた。麻衣もその時、浩司を引き留めようとはしなかった。何とか服を着ることだけはできたようで、ソファーに座って、ゆっくりしていた。
 麻衣には、仕事のためと言って、麻衣の部屋を後にしたが、麻衣は浩司の言葉を最初から信じてはいなかった。
 麻衣の部屋を出る浩司を目で追いながら、一言も声を掛けなかった。ぐったりしていて、声を発するのも億劫なのだろう。
 浩司は、以前から、麻衣に自分の隠れ家である喫茶店の所在を知られていることに気付いていなかった。
 浩司の頭の中で、女性の整理をしようという考えが頭にあった時、麻衣には、
――自分が捨てられるかも?
 という危惧があり、密かに浩司をつけたことがあった。他の女のところに行くとでも思ったのだろう、
 それが意外や意外、一人でゆっくりするための喫茶店を持っていたとは、少し麻衣は拍子抜けした。しかし、安堵のため、胸を撫で下ろしたのも事実で、
――私が捨てられるというのは、思い過ごしだったのかしら?
 と思うようになった。
 女性の整理に違いはなくとも、自分が捨てられると思ったのは、少し自分の精神状態がおかしかったからではないか。麻衣は、次第に落ち着きを取り戻そうと、溜飲が下がってくるのを感じていた。
 浩司が一人で喫茶店に行くのは、浩司自身が、その時の麻衣のように、溜飲を下げたいからであって、それだけ麻衣との生活が浩司にとって、浮世離れしているものではないだろうか。麻衣にとって都合のいい考えだが、そんな麻衣を浩司が捨てるような真似をするわけはないという思いが根拠となり、浩司に対して、おかしな疑惑は抱かないようにしていた。
 ただ、それも麻衣が精神状態を普通の状態に持っていける時にできることであって。妊娠したことで、今までにない精神状態にある麻衣に、どれだけ平静を保つことができるかも麻衣自身が不安だった。浩司が今まで通りでいてくれて、麻衣の期待にそぐわなければ問題ないという薄氷を踏むようなものなのかも知れない。
 浩司も麻衣の前では、なるべく平静を装うよう、心がけていた。少なくとも、今までは問題なく付き合えた。しかし、男としての性で、どこまで身体が変わっていく麻衣を、変わらずに性欲を保てるか、自分でも自信がなかった。すでに変調の兆しは見え隠れしているではないか。
 麻衣に対してというよりは、浩司の中で、麻衣以外の女性に対して、どのように接していくかが問題だった。いきなり別れを告げられるような相手は、すでに別れていた。残った女性たちと、別れるにしても、このまま付き合っていくにしても、精神的にはかなりの部分をむしばむだろう。
「前門の虎、後門の狼」
 と言ったところだろうか。
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次