彷徨う記憶
「実際の目で見ていて感じることのできないものを、私は絵によって表現するのよ。我ながら素晴らしいと思うわ」
自己陶酔に浸る麻衣の横顔は、実に素敵だった。ベッドの中で乱れ、自分の腕にしがみついてくるオンナと同じ女性なのかと思うと、思わず溜息が漏れる。それは、自己陶酔に浸っている女性が、その時だけ自分の支配の中から抜け出してしまったかのように思えることに対しての嫉妬であった。
麻衣の最大の魅力、それは笑顔だった。特に浩司に向けられた笑顔は、他の誰に対してのものでもない。また、浩司が付き合っている女性たちそれぞれの笑顔に魅力を感じるが、麻衣の笑顔は、本当に満面だった。ただ、時々浩司を見つめる笑顔の後ろに、誰かを意識しているように思えてくるのは気のせいであろうか。
一度、聞いてみたことがあった。
「麻衣の笑顔って最高だよね。でも、僕に対しての笑顔だけ特別なの?」
「ううん、そんなことないわよ。誰に対しても平等のつもり。でもその中で浩司さんに対しての笑顔が特別だとすれば、私は嬉しいな。本当は、浩司さんに対しての笑顔が特別であってほしいっていつも思っているんだけど、本人としては、この人だからっていう贔屓目な気持ちはないのよ」
確かにそれも麻衣の特徴だった。誰に対しても分け隔てのない表情は、誰からも好かれる麻衣の魅力だった。
デッサンの時は、真面目な表情をしている。一点を見つめて、それを素直にスケッチブックに描くのだ。だが、それを知っているのは浩司だけだろう。麻衣の描くデッサンは特徴がありすぎて、原型をとどめていないことさえある。
「私は素直な気持ちで描いているだけなのよ」
そんな麻衣の気持ちを知ってか知らずか、麻衣の絵を密かに芸術の域だと思っている人も何人かいた。もし、麻衣の気持ちをその人たちが知ったらどうだろう? 芸術の域が見せかけに思えてしまうのだろうか。それとも、やはり芸術の域だと思うのだろうか。浩司は前者であってほしいと思っていた。もちろん、麻衣にはそんな気持ちでいることを話してはいないが、麻衣にとっては、前者であってほしいと思っている浩司を、求めているのかも知れない。
いつもの駅での待ち合わせの時間は曖昧だった。普段は拘束しないというのが、お互いに暗黙の了解だった。
「待った?」
「そんなことはないよ」
というのが、いつものセリフ。少しだけ遅れてくるのが、麻衣だった。
悪びれた様子はない。かといって、待たせて当然と思っているわけではない。浩司は待つことを苦にしない。それを麻衣は分かっているからだ。
「必ず来てくれると分かっている人を待つのって、意外と快感なんだよ」
「へえ、そうなの? 私には分からないわ」
と口ではいう麻衣だったが、実際は分かっていた。旦那と離婚して、浩司と出会うまでに他の男性と付き合ったことがないわけではない。その男性からいつも待たされていた。しかも、遅れてでも現れる可能性はほとんどなかった。それでも待ちわびている自分に対して惨めだと思うことはない。
「人を信じることが、その時の私には一番大切なことだったのよ」
と、浩司に話した。
麻衣は、浩司に隠し事をしないようにしている。実際に隠さなければいけないこともなかったし、それが浩司を愛している麻衣の証でもあったのだ。浩司も麻衣のそんな気持ちが分かるから、そのことについては何も言わない。
「麻衣が勇気を出して打ち明けてくれたことだ。僕がどうこう言うことではない」
と、少々冷たく言い放ったが、麻衣にはありがたかった。下手に優しさを込めて言われると、余計に後ろめたくなってきて、言い訳がましく相手を見てしまうからであろう。
――勇気を出して――
というところを分かってくれていることが、麻衣には嬉しかった。麻衣が発する言葉に対して、浩司は必ずと言っていいほど、麻衣が嬉しく思う言葉が含まれている。
――私はそんな浩司さんを愛しているんだ――
と感じる麻衣だったのだ。
「お腹が減ったね」
「うん、もうぺこぺこ」
この会話もいつものことだった。ただ、この言葉の裏には、
「僕は君を抱きたい」
「ええ、受け止めて」
という意味が含まれていた。違う言葉で表現することが却って二人の間に欲情を芽生えさせ、秘密めいた雰囲気をまわりに醸し出しているのが、心地よかった。
麻衣はベッドの中では従順だった。普通にデートしている時は、あくまでも対等。そんな相手でないと、麻衣の相手は務まらない。嫌気が差して麻衣から離れるようなオトコであれば、本当の麻衣の魅力を知ることはできないだろう。
従順という言葉、浩司は好きだった。浩司に対して従順な女性は、自分に対しても嘘をつくことはない。それが浩司には嬉しかったのだ。
麻衣と出会うまで、従順という言葉の本当の意味を知らなかった。ただ、自分のいうことに逆らうことなく、ただただそばにいるだけというのをイメージしていたが、それだけではないようだ。
そんな女性も浩司は嫌いだというわけではない。むしろ、学生時代まではそんな女性の方が好きだった。少しでも言い訳や逆らったりされると、こっちが身構えてしまう。それが浩司には嫌だったのだ。
「犬と猫、どっちが好きなんですか?」
と聞かれると、迷わず、
「犬の方が好きです」
と答えるだろう。理由を聞かれると、
「人懐っこさが好きなんですよ。猫は何を考えているか分からないところがありますからね」
と、答えていたが、最近では少し違っていた。やたらと愛想がいい犬と違って、猫は本音でぶつかってくれているように思う。犬と猫、どちらが人間に近いのかと聞かれれば、迷わず、
「ネコの方じゃないんですか?」
と答えることだろう。人間でも下手な媚びを売る人をまともに信じてしまっていたら、いつ酷い目に遭うか分からない。それを思うと、信じようとさせられるのは猫の方に思えてならなかったのだ。
「でも、ネコって冷たいところがあるじゃないですか。それも自分勝手だっていうイメージがあるんだけど」
と、言っていた女性がいた。
「でも、男性にとっては、ただ黙って自分のいうことを聞いているだけの女性というのが物足りないと思っている人も多いかも知れないですよ」
浩司は、完全に犬と猫の話を、男女の話へと置き換えてしまっていた。まるで最初のきっかけを忘れてしまったかのようであるが、これは巧みな誘導でもあった、相手が女性であれば、自分が猫を好きだというと、相手の女性も知らず知らずのうちに浩司の話術の中に嵌ってしまう。
その典型が麻衣だったと言ってもいい。
麻衣と出会うまで、浩司は、一人の女性以外を好きになることはなかった。
「一人を好きになったら、他の人を好きになるなど、考えられない」
と言っていたが、それは間違いだった。一人を好きになったら、その人を自分がどこまで好きなのかということを確かめたくて、余計に他の女性を知りたくなる。それは、本命の女性を見ている目で見つめることで、初めて感じることのできるものだ。相当器用でないとそんなことができるはずがない。最初は浩司も他の女性を見ている目を何とか隠そうとしていたが、隠そうとすればするほど、ぎこちなくなってしまう。