彷徨う記憶
麻衣も他の女性と同じことを言ったが、麻衣が浩司の満面の笑みを気に入った証拠であり、それは他の女性の感じる真面目さとは少し違っているように思うのだった。
真面目さとは、自然と滲み出るものだとすれば、麻衣のセリフもまんざらでもないかも知れない、確かに、意識して真面目を装うようなことはしていないが、一度意識してしまうと、そこから先はわざとらしさが見えてきても仕方がないものであった。
「君は真面目だね」
と言われるのが、一番嬉しかったのは小学生の頃だった。
中学生になって、真面目だと言われると、苛めを見て見ぬふりをしなければいけなくなった。中立の立場が一番無難であることは分かっていても、中立を保つと、
「見ていた連中も同罪だ」
と言われる。かといって、逆らっても損するばかりで、次の苛めの対象が自分になりかねない。真面目だと言われると、逆らえない人間をイメージしてしまう。どうしていいか分からず、じっとしていることが無難にやり過ごす秘訣である。見て見ぬふりをするほど、辛いものはなかった。
大人になるにつれて、真面目さがまた脚光を浴びるように思えた。ただ、無駄なことはしたくないという思いと、何が無駄なのかということを考える頭は別であった。
ただ、真面目なだけの人間が社会に出ると、今度は用無しだと思われている。誰もができることをできても、バイトで賄えるではないかと言われてしまえば、それきりだった。麻衣と知り合ったのは、そんな真面目な性格を今一度思い返してみようと思った時だった。
「ひょっとすると、麻衣と出会ったことで、真面目な自分を振り返ってみようと考えるようになったのかも知れない」
そう思うと、どんどんその思いが深まってくるのである。麻衣の出会った相手がその時は真面目を追い求める人間ではなかったかも知れないと思うと、出会いが本当に偶然ではなかったのかということが、曖昧になってくるから不思議だった。
麻衣が他の女性と違うと感じたのは、きっと自分の好みが微妙に変化し始めた時に知り合った相手だからだと思っていたのだが、実際には違っているように思う。確かに女性の好みは、その時々で変わってきたが、実際には浩司にとって女性の好みというのは存在せず、好きになった人がその時の好みだと思い込んでいたのかも知れない。
基本的な好みがないわけではないが、好み以外の人を受け入れないわけでもない。どんなに好みの相手でも、相手がこちらを好きになってくれなければ、よほど生理的に好まない相手でもかい限り、好きになってくれた人に靡くのは当然ではないだろうか。それを男の性だとして考えるか、それとも、優柔不断と考えるかは、また人それぞれの感覚であろう。
麻衣の場合は、相思相愛に近かった。どちらが先に好きになったかは分からないが、
「あなたが、好きになってくれたから、私も好きになったのよ」
と言われると、
「違うだろう。君が先だよ」
と、浩司は答えるが、それ以上の好きになってくれたから好きになったという言葉を発しない。それは浩司自身が、本当に自分の方が先に好きになったのかという自問自答を繰り返して、自信をもって答えることができないからなのかも知れない。
また、浩司の性格からして、返事を返す時に、
「君が好きになってくれたから、好きになってあげたんだ」
という、最初はへりくだった言い方でも、最後は恩着せがましい言い方になってしまうことを懸念していた。売り言葉に買い言葉というのは、まさしくそのことなのかも知れない。
麻衣という女性は、浩司の前では性格が一定していなかった。普通は逆で、他の人に対して一定していない性格を示していても、自分に対してだけは、一徹したものがあるのが、今付き合っている女性たちであり、今まで付き合ってきた女性たちでもあった。そう思うと浩司は、自分が麻衣に興味を示した理由が分かってくるのだった。
「僕が女性に興味を持つのは、その時々で理由があるんだ。ただ、その時に感じたことは、すぐに忘れてしまうのが、ちょっと困ったところなんだけどね」
酒を呑みに行って、酒の肴に女性の好みや、女性に対する態度の話が出た時、浩司が話したセリフだった。酒に酔っていたからといって、出まかせを言ったわけではない。しらふになってからも、今でも、そのセリフはしっかりと覚えているのだ。
麻衣との待ち合わせはいつも駅だった。彼女が寿退社してからしばらくして、麻衣は浩司を一度見かけたという。浩司は、まったく麻衣に気付かなかったが、麻衣は浩司から目が離せなかったという。その頃から、麻衣と旦那の間に少し不協和音が感じられたという。亀裂に繋がるなど思っていなかったというが、それだけに、どう転ぶか分からない状態で、一番不安が募っていた時期だったに違いない。
「浩司さんに、本当は胸の奥の苦しみを取ってもらいたくて、声を掛けようと思ったんだけど、できませんでした」
「どうしてだい? 声を掛けてくれればよかったのに」
麻衣が声を掛けられなかった理由は何となく分かった気がした。
「だって、幸せな結婚をしたと思っている人に、今さら言えないでしょう? しかも、相手が浩司さんならなおさらのこと。私がまだ結婚を迷っている時にも、一番相談しやすいと思ったのは浩司さんだったんだけど、一番してはいけない相手だと思っていたのも事実なんですよ」
と、はにかんだ笑顔を見せた。要するに、麻衣は浩司のことが好きだったのである。
結婚相手と天秤を掛けたわけではないだろう。天秤を掛けて、顔に出さないようにできるほど、麻衣は器用な女性ではない。それは、親しさを増した今だから分かることではなく、前から分かっていたことだ。親しくなったことで、確信に変わったというべきなのだろう。
麻衣は、結婚してから趣味を持った。何事にも不満のない頃は、専業主婦で満足していて、旦那のためにすることすべてが自分のすべてだったのだ。
「趣味を持つというのは、気を紛らわすことを前提としているもので、私には無用のものだって思っていたのね。でも、旦那との距離を感じはじめると、最初に浮かんできたのが趣味を持つことだったというのは、私にとって幸いだったのかも知れないわ。離婚するまでの時間が長くなったのは事実なんだけど、それよりも一人になってからの自分を見失うことがなかったのは、きっと趣味という世界を垣間見ることができたからなのかも知れないわ」
麻衣の趣味は、絵画だった。デッサンに近いもので、油絵のように大げさなものではない。イラストに近いものでもあるが、簡単にできて、出来上がったものに一番満足を与えられるのがデッサンだったのだ。
デッサンは、見ようによっては奥が深い。描いている時の自分を見ることができないが、きっと少年のような目の輝きを放っているのではないだろうか。
デッサンでは色を使わない。鉛筆書きの濃淡で、色や風、さらには息遣いや情景までも見る人に思い浮かべさせなければならない。最初に全体をイメージしてから、細かいところに入っていくのだが、細かいところを描いていると、本当に風や、植物の息吹を感じることができるようだ。