彷徨う記憶
それは、麻衣に対してなのか、まだ見ぬ子供に対してなのか、自分でも分からない。子供ができたと確定しているわけでもないのにである。
麻衣の順番がやってきて、呼ばれた麻衣は、立ち上がった。その時すでに震えは止まっていた。
さっきまでは意識がなかったが、周囲のざわめきを感じるようになった。お腹にいるのは何番目の子供になるのか、幼稚園に上がる前くらいの子供が、泣き叫び始めた。それを最初は誰も注意しないので、どこの子供か分からなかったが、さすがに業を煮やしたか、そばにいた奥さんが、子供を叱りつける。
「あんた、いい加減にしなさい」
その声がヒステリックだったので、子供は泣き止むどころか、さらに声を荒げている。それを見ながら、
「母親失格だ」
と、小さい声で呟いた浩司は、次第に自分にもストレスが溜まってきたのを感じた。
――こんなところにいたんじゃ、溜まったものではないな――
と、苛立ちを隠せない自分を感じた。さぞや、厳しい形相をした自分がそこにいるのだろうと想像してみた。
――これくらい耐えられなくて、結婚して大丈夫なのか?
さっきまでの麻衣に対しての態度に少し自信が揺らぎ始めていた。子供のためにと言いながら、麻衣だけを見ていたのだ。やはり、子供を材料に結婚を考えようとするのには無理があるのだろうか?
だが、それでも麻衣への気持ちに変わりはない。早く麻衣が出てきて、抱きしめてあげたい気持ちは最初から本物だ。
しばらくすると、麻衣が出てきた。麻衣の表情は少なからず上気していて、胸を撫で下ろした様子が見て取れた、だが、その本心は浩司には計り知れなかった。子供ができていないことで、ホッと胸を撫で下ろしたのか、それとも、子供が宿ったことで、自分の中にいる子供を思って、胸を撫で下ろしたのかである。どちらにしても、すぐに麻衣の口から真実が語られることになるだろう。
「妊娠三か月だそうよ」
麻衣の表情は複雑だった。それを見て、浩司はどのようなリアクションを示していいのか、考えあぐねていた……。
記憶喪失の里美と別れるのが、浩司には一番辛かった。最初、落ち着こうと思い、最初に里美と別れようと思った浩司だったが、里美とはどうしても別れることができなかった。別れようと思った時、里美の中で何かが変わったのが分かったからだ。それをもたらしたのが自分ではないと知った時、本当に別れるなどと自分が考えていたことすら、信じられないほど、精神的に豹変していた。
一度は別れた相手だった。確かに別れていた時期があったはずなのに、その時期がまるで幻のようだった、
――里美と別れなければ、大変な取り返しのつかないことになる――
という思いを抱いていたのは、奇しくも麻衣に自分の子供が宿ったことを、麻衣自身が気付き始めた頃だった。
浩司は、すでに他の女性たちとは手を切ったつもりでいた。里美と手を切ることが一番難しかったが、由香と手を切るのも実は難しかった。
「私、そのうち、誰かに殺されるわ」
と言っていたのが、引っかかっていた。
確かに由香は自分に予言の力があると言っていたが、天然であることから、予言の信憑性を疑問視していたのも事実だ。
誰かに殺されるとは、さすがに穏やかではない。信憑性に欠けるとはいえ、頭の中にずっと引っかかっていた。
天然な由香だっただけに、浩司は自分の手から離れると、糸の切れた凧のように、どこに飛んでいくか分からないという意識も強くあり、そちらも心配していた。
由香には、浩司が別れを考えていた時から、友達が少しずつ増えていった。だが、親友と呼べるような人や。男の友達はなかなかできない。できた友達も、由香のことを、
「何を考えているか分からない」
と言って、付き合いに一線を画していたようだ、
浩司は、由香を少し離れて見守っていた。いきなり、別れを告げても、由香に耐えられるかどうか分からなかったので、少しずつ距離を置いていくようにしたのだ。
由香は天然ではあったが、勘は鋭い方だった。予言できるのも勘の鋭さがあったからかも知れない。
浩司は、里美と別れることはできないと感じていたが、由香とは別れなければいけないと思っていた。正直麻衣に子供ができたと知った時から、由香に対しての気持ちがどんどん薄れてくるのを感じた。それは空気の入ってパンパンになっている風船に穴を開けて、空気が漏れていく様に似ていた。
――里美の記憶が戻るための協力は、してあげないといけないな――
そのためには、麻衣に里美の存在を知らせておく必要がある。以前から付き合っていたということをいう必要はないだろう。麻衣は浩司が複数の女性と付き合っていることは知っているが、浩司としては、一番麻衣に知られたくない相手であることに間違いはない。里美には、「雰囲気」があり、麻衣が見れば、何かを感づくかも知れないと思ったからだ。
しかし、隠そうとすればするほどボロというのは出てくるもので、どちらがいいのか、浩司は悩んでいた。だが、もし分かってしまった時にどちらがショックが少なくて済むかと考えれば、おのずと答えは決まっていた。
妊娠が分かった麻衣は、一時期のようなベッドの中での快楽を貪る行為はしない。何かに憑りつかれたような乱れ方をする麻衣だったが、快楽に身を任せてしまうことに溺れかけてしまっていた浩司も、その時の麻衣の精神状態まで考えようとしなかった。
また、考える必要もないと思っていた。元々、アブノーマルなプレイにも興味があった浩司は、
――するとすれば、麻衣しかいない――
と思っていただけに、麻衣から言い出してくれたことは、ありがたいことだった。まるで水を得た魚のようにお互いを貪りながらのプレイ、
――これほど身体の相性が合っているなんて思わなかった――
と思わせるほどだった。
そんな麻衣に自分の子供が宿ったのだ。ショックだったというよりも、身体の相性がピッタリだと思っていただけではなく、精神的にも麻衣に近づけたことが嬉しかった。
「めちゃくちゃにして」
と絶叫していた麻衣と、子供を宿して幸せな顔をしている麻衣、まったく別人に見えるが、どちらも幸せな気持ちになっていることに違いはない。アブノーマルなプレイでも、相手が浩司であり、性的に一番深くつながることができることは、幸せ以外の何者でもないだろう。
今の麻衣は、浩司を独り占めにできたことをどう感じているだろう。里美のことを話して、取り乱すかも知れないが、それもいずれ通らなくてはいけない道であることには違いない。
里美を、麻衣と会わせるために段取りを考えていたが、麻衣と二人だけの場所は使いたくない。里美とはいずれ別れるつもりでいるからだ。
浩司は付き合っている女性と待ち合わせという意味で、二人きりになるための場所をそれぞれ持っている。もちろん、里美との間にも存在していて、そこで麻衣と面会させようと思った。
――里美はどう思うだろうな?
あまり取り乱すことのない里美は、文句を言うこともないだろう。もちろん、浩司の勝手な思い込みで、女心を本当に分かっているのかと言われれば自信はないが、自分が付き合った女性とのテリトリーくらいは、把握しているつもりだった。