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彷徨う記憶

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 浩司には離婚の原因を話している。本当の事情を知っている人以外には、性格の不一致としか話していないが、それもまんざら嘘ではない、性格の不一致という言葉は実に便利で、
「木を隠すには森の中」
 ということわざがあるが、まさしくその通り、本当の理由を隠すにはちょうどいい。少々のことであれば、ほとんどの理由が性格の不一致に当てはまるからで、ウソをついているわけではないからだ。
 人に騙されたと言えば、聞こえは悪いが、麻衣には同情してしまうところがあった。だからと言って、許せることではない。
「もう、お前しかいないんだ」
 と、言っていた人が、開き直ったのか、
「もういいよ」
 と言って、離婚届に判をついてくれた。本当は、麻衣と一緒にやり直したかったのかも知れないと思うと後ろ髪を引かれる思いだが、同情は禁物だった。
 麻衣が自分の思ったように表現したり、素直な気持ちを表に出すのは、このことがあったからだろう。
 ただ、元々の明るい性格が作用していることは言うまでもない。いくら開き直ったと言っても、そう簡単に性格を変えることなどできるはずもないからだ。
「私、あの人の子供を宿さなくてよかったわ」
 喫茶店を出て、産婦人科までの道を歩き始めてすぐに、麻衣がつぶやいた。浩司は何と答えていいのか分からずに、振り返りもせず前だけを見て歩いていた。
 麻衣も、答えを求めているわけではない。下手に答えを出されても、それについて会話できるほどの話題もなければ、気持ちもない。忘れるつもりだった元旦那のことを思い出してしまったことを、浩司に黙っているのが、耐えられなかったのだ。
 前を向きながら歩いていると、麻衣が急に立ち止まり、
「あれ?」
 お腹を抑えて、顔を捻った。
「どうしたんだい?」
「いえ、何でもないの。ただ、お腹の中で何かが蹴ったような気がして」
 もし、妊娠していたとしても、そんなに早く子供が母親のお腹を蹴るはずもない。まだ人間の影も形もできていないはずだからである。
 それを聞いた浩司も立ち止まり、麻衣のお腹に耳を当ててみた。
「ちょっと」
 麻衣もビックリしたが、案外気持ちのいいものだ。気持ちがいいというよりも安心できるというのが本音で、くすぐったさも、浩司の暖かさが伝わってくれば、心地よさに変わるのだった。
「何か聞こえた?」
「いや、麻衣の胸の鼓動だけだ」
「当たり前でしょう?」
 麻衣は心細くなっていたので、浩司の行動がさらなる不安を掻きたてた。だが、嫌だったわけではない、浩司であれば、結婚しても、きっといい父親になってくれるに違いないと、麻衣は感じていた。
 浩司との結婚生活を、麻衣は今まで夢見たこともあった。だが、あまりにも現実離れしているので、なるべく考えないようにしていた。それは、浩司には自分以外にも女性がいるからだった。
 恋人としては、許せるかも知れない仲でも、結婚してしまえば、きっと許せなくなるに違いない。
 それに麻衣には一度離婚経験がある。いざ離婚となると、二度目は、最初ほど考え深いものはないかも知れない。許せないと思ったら、あっさり離婚してしまうだろう。
 だが、浩司が結婚を考えているのは、麻衣に子供ができたかも知れないと思っているからだ。
――子供を中心に結婚を考える――
 というのは、男としてのけじめとして格好いいかも知れないが、結局は、どこかで収めなければならない鞘を収めるきっかけが見つかっただけのことなのだ、
――男って、何て身勝手なのかしら?
 と、前の旦那を思い出してみたが、今度は、最初に感じた同情は欠片もなかった。男というずるがしこい動物に対して麻衣は、今自分が開き直っているのを感じていた。
――スーッとしてきたわ――
 気持ちが次第に楽になる。開き直ったわけではなく、自分の中で気持ちに整理がついたのかも知れない。男というものがずるがしこいものだと分かってしまえば、麻衣はどうするか、何となくだが、見えてきたような気がした。
 浩司の後を肩身の狭い思いで歩いていた麻衣は、ゆっくりと浩司に近づき、浩司の腕に抱き付いた。
 浩司はビックリしることもなく、まるで当たり前のことのように、麻衣を見下ろし、微笑んでいる。
「やっと来たか」
 と、一声掛けると、しかめ面にも見える笑顔を麻衣に浴びせた。
 麻衣は以前にも同じような表情を見たことがあったような気がした。それが浩司の表情だったのか、他の人の顔だったのか思い出せなかった。
――思い出す必要なんてないんだわ――
 今、目の前にある浩司の表情が真実だ。真実だけを見つめていればいい状況に今自分がいるのだと思っている。それはいつも同じであって、ただ、その真実がどこにあるかを、いつも探し求めているだけなのだ。
 どうしていいか分からない。そして、何を信じていいのか分からない。分からないものばかりだと、襲ってくるのは不安だけだ。それか一つでも開眼できれば、後は、そこから分かってくるものも多いだろう。麻衣は、浩司を見つめていて、信じることだけが今は大切にしていけばいいことを知ったのだ。
 目指す産婦人科まであと少し、ここまでの道のりが一時間くらいに感じられたが、実際には十五分ほどであった。
 産婦人科のイメージは、浩司にとって想像以上に綺麗だった。待っている時間、この間買ってきた文庫本を開いて読んでいた。少し前に話題になったミステリーだ。
 産婦人科という場違いなところで読むミステリーというのも、おかしなもので、お腹がはち切れんばかりの女性たちが、大事そうに自分の身体を支えている姿は滑稽にさえ見えた。その雰囲気のまま小説を読んでいると、思ったよりも早く読めてしまうようで、不思議だった。
 早く読めているわけではない。本当は思っていたよりも、時間が経つのが早かったのだ。それは想像以上という言葉を使うものではなく、思っていたよりもという言葉が似合っていた。
 髪を長く伸ばした奥さん、ショートカットの奥さん、身体を見なければ性格が分かってくるのかも知れないが、皆一様にお腹が大きいと、普段がどんな性格なのか、想像できなかった。ただ、どの人も身体を持て余しながら、大切にしているのは分かった。命をはぐくむとは、そういうことなのだ。
 浩司は、麻衣に言った言葉を再度噛み締めていた。
「子供ができたのなら、結婚しよう」
 子供を条件にしたのは、いけないことだと思ったが、子供という命を育むのが女。しかもその命は自分との共同作業で生まれたもの。遊びまくっていた男性が、子供が生まれてから、急に子煩悩になったという話をよく聞く。
「俺はそうはならないさ」
 と、言うやつに限って、子煩悩になるものだ。浩司は果たしてどうなのだろう?
 診察室から呼ばれるまで、浩司と麻衣は一言も話をしなかった。麻衣は週刊誌を持ってきて、開いてはいるが、見ている様子はまったくない。浩司の方が、まだ小説を読んでいるだけ、落ち着いて見えた。だが、麻衣がピッタリと身体を寄せて、震えているのを感じると、
――この身体に新しい命が宿っていてほしいな――
 とも感じた浩司だった。
――僕が父親になったら、何をしてあげよう――
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次