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彷徨う記憶

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 と答えるだけであった。昼と夜とで違っていると言っても、麻衣の姿を知っているのは浩司だけ、そう思うだけで浩司は満足だった。麻衣も、浩司が満足してくれているということだけで嬉しく思うのか、表情は穏やかで、余裕のある笑みが浮かんでいた。
 麻衣は、コーヒーを口に運ぶのも、いつもと違っていた。いつもは、カップを口に運んで一気に口に含んで味わいながら飲み込む。それをいつも、
――麻衣らしいな――
 と思って眺めていた浩司だったが、その日は、あくまでも神妙にゆっくりとカップに口を運んで、口に含むのもおしとやかだ。
「一気に口に含むのは、コーヒーの苦さを少しでも和らげたくて、口に含むことでマイルドになっていくのを感じるのも楽しいものよ」
 と、言っていたが、それをチビリチビリと飲むということは、コーヒーの苦さをまともに味わう飲み方をしていることになる。
「大丈夫かい?」
 と、思わず声を掛けたが、
「苦くないかい?」
「うん、ちょっと苦いかも知れないけど、でも最近はこういう飲み方をすることが多くなったの」
 少なくとも、以前に一緒にコーヒーを飲んだ時は、いつもの飲み方だった。そうでなければ、今の飲み方に違和感を覚え、聞いてみることはしないだろう。最近というのがいつのことなのか、気になった浩司だった。
 麻衣と一緒にコーヒーを飲むことは、最近では少なくなったが、付き合い始めた頃は好きだった。麻衣の部屋に行った時、いつもコーヒーメイカーで入れてくれる。麻衣の好みのコーヒーは、香りは激しく、味がまろやかなものだった。
「その方が、飲んだ時、甘さすら感じるほどになるのよ」
 と言っていたが、まさしくその通りだった。
 浩司は、麻衣の入れてくれたコーヒーを飲みながら、付き合っている複数の女たちのことを考えていた。
 里美とは別に、最近知り合った由香、さらには、結婚すると言って、最近浩司から離れて行った女性がいたが、気が付けば、すでに忘れかけようとしていることにビックリしてしまっていた。
 名前をルリと言ったが、彼女はスナックで勤めた経験のある女だった。もっと長く付き合っていけると思っていただけにショックは大きかった。彼女は一言でいうと、
――そばにいて、一番違和感のない女性――
 であった。
 まるで路傍の石のように、そばにいるだけで、誰も何も感じない存在。いなくても、誰も分からないかも知れない存在が、一番その人にとって大切なことかも知れないと、浩司は時々感じることがある。
 それは自分が忘れっぽい性格であることを自覚し始めて、
――どうして、簡単に忘れてしまうんだろう?
 と、何度も自問自答したりした。
 人に言わせると、
「一番大切なものを意識できないからだよ」
 と、いうことらしい。
「どういうことなんだい?」
「何でも揃っていて、不足しているものがないと、あって当たり前なんだよね」
「確かに、ないと困るという意識よりも、あって当たり前という方が意識として強いかも知れないな」
 言葉の違いこそあれ、自分にとって同じものを意味しているように思う。あって当たり前だという意識を持てば、なくては困るとなかなか思えない。忘れてしまって思い出さないといけない時だけ、なくては困ることに気付くのだ。
 だが、なくても困るものでも、事なきを得ると、また意識は遠ざかる。あって当たり前だと思い始めると、思い出すのが困難になったりもする。
 ルリのことを思い出したのも、麻衣が妊娠していると、あって当たり前という存在のルリが、なくては困る存在に変わり、手放すことを、自分が耐えられるだろうか? 今までルリが取り乱したところを見たことがない。もし、目の前で取り乱されたら、果たして浩司にはルリを諦めることができるだろうか? 浩司はルリのことが頭に過ぎらせながら、麻衣と応対しなければならない。
 麻衣にはルリの存在を教えていない。他の女性のことは知っているはずだとは思うが、ルリの存在は意識して隠そうとしていたのだ。
――もし、麻衣がルリの存在を知ってしまったら――
 と思うと、言い知れぬ不安に駆られる。その不安は、麻衣が抱く嫉妬に対してだった。
 今の麻衣に嫉妬心を抱かせてはいけない。ただでさえ、妊娠したかも知れないということで、心身を痛めているのだ。追い打ちをかけるような真似はできないし、浩司は麻衣だけのことを考えていなければいけないのだ。
 コーヒーを飲み干すのは、結局麻衣の方が早かった、最初は浩司の方が圧倒的に早いと思われたのだが、浩司の頭の中でルリのことがよぎった時から、形勢は逆転した。逆に麻衣の方の飲み干すスピードは速くなり、あっという間に麻衣は飲み干していた。
 浩司がルリのことを考えている時、ずっと麻衣の視線を感じていた。何を考えているかはさすがに麻衣でも分かるまいと思っていたが、どうやら、麻衣にはおぼろげに分かっていたようである。相手が誰かということまでは分からないはずだが、分かっているかも知れないと思うと、浩司は自分が身構えてしまっていることにビックリしていた。
――この僕が気後れしている――
 この状況で、他の女性のことを考える浩司は、自分でもどういう心境なのか計り知れないでいた。それだけに、自分に自信が薄れていくのを感じると、麻衣の顔を直視できなくなっていた。麻衣が浩司の様子に違和感を覚えたとすれば、直視できない様子におかしいと感じたのかも知れない。
 麻衣の気持ちは、一直線に浩司を見ていた。浩司が考えているほど、麻衣は深くを考えていない。
 麻衣という女性は浩司が考えているほど、したたかな女性ではない。弱いところまで表に出すことで、弱さを感じさせないようにしているというのは、男の立場で考える浩司の、考えすぎではないだろうか。
 麻衣がコーヒーを早く飲み干したのには、深い理由があるわけではない。確かに浩司の様子を見て、
――心ここにあらず――
 という雰囲気を感じ取ったからであるが、それだけではない。そういう意味では麻衣は強い女性であった。
 二人の間に会話がないことで、喫茶店の中には、少し重たい空気が流れていた。他の客は朝ということもあり、単独の客が多い。単独の客は静かなのは当たり前だが、二人の雰囲気とはまた違っている。だが、下手な会話は却って重苦しさに拍車を掛けてしまうだろう。そんな時間帯が少しだけ続いた。
 コーヒーを飲み終えて、しばらく会話のない状態が続いた。
「麻衣」
 最初に声を掛けたのは、浩司の方だった。
「心配しなくていい」
 浩司が一言告げると、一瞬口元が何か言葉を言おうと動いた麻衣だったが、すぐに思い直して、軽く会釈した。浩司のいう言葉の意味が、よく分からなかったのだ。
 あまりにも漠然としている言葉だからだ。一体何を心配しなくていいというのだろう?
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次