彷徨う記憶
麻衣は、本当におかしいみたいで、腹を抱えて笑った、たとえを変えて、毎回同じ話題で話がもつのだから、確かにおもしろいだろう、だが、それもお互いの関係を確かめ合っているのだから、大切なことだと思っている。
「大切なことを、ごく自然にできる関係」
それが、浩司と麻衣の関係だった。
その翌日、浩司は会社に遅刻する旨を申し出て、麻衣と病院に出かけた。
「すみません。朝、病院に寄ってきますので、遅刻します」
と、それ以上詳しい話はしなかった。もし、本当に自分のことで病院に寄るのであれば、
「体調が悪いから」
という言葉を付け加えるに違いない。
そして、何時頃には出社するということも付け加えているだろう。普段なら、昼過ぎくらいだと言っていたはずだ。
もっとも、あまり体調を崩したことのない浩司は、病院に行くと言って、会社に電話を入れたこともなかった。電話応対してくれた女性事務員も、そういう意味ではまったく疑う素振りもなかった。ひょっとしたら、
「佐久間さんて、こういう時は肝心なことを言わない人なのね」
というくらいは思ったかも知れない。
麻衣とは、出勤時間の少し前くらいの時間に、駅で待ち合わせた。こんなに早く待ち合わせをすることなどなかったので、浩司も少し眠かった。だが、それよりも胸の鼓動が気になっていた。麻衣には、子供のことは心配しないでいいと言っていたが、内心では今まで遊んでいた自分が、覚悟を決めて、結婚に落ち着いてしまうことが果たしてできるかどうか、半信半疑だった。
――自分のことのくせに――
と思い、他に付き合っている女性たちに対し、どういう態度を取っていいのか、決めかねていた。
病院は、前もって麻衣が探して、決めていたようだ。
産婦人科を決めるということは、結構迷うものではないだろうか。特に、子供ができていたとすれば、ずっと通うことになるだろうから、最初が肝心ということもある。
歯医者に通うのでさえ、浩司には勇気がいった。実際に歯医者を何か所も変えた経験があり、
「病院選びは、結構大変だ」
と、何度も感じていた。
女性にとっての産婦人科は、また特別であろう。人によっては、病院というイメージとは違うかも知れない。特に最近は、待合室などまるで、美容院のようだったり、大きな水槽に熱帯魚が泳いでいるシーンをドラマなどで見たりしたこともあった。
だが、さすがにいざ産婦人科となると、自分が付き添いにすぎないとはいえ、緊張するものだ。特に、虚勢を張っているが、内心ではビクビクしている麻衣に、どのように接していいかが、気になってしまう。
麻衣はあくまでも、おどけているが、それも浩司を慕ってのことだということは分かっている。だからこそ、可愛いと思うのだ、
さすがに普段の麻衣とは違う。病院にこれから赴くということ、そして、朝という時間が麻衣へのイメージを変えていた。
太陽の位置が違うだけで、精神的に大きく違ってくる。朝と夕方でこれほど違うのはなぜかと以前から思っていたが、太陽の位置の違いを感じるようになったのは、最近のことだった。
夜は太陽の光が一切なく、人工の光が、夜という世界を彩り、それが人それぞれに夜の街という印象を植え付けるのだ。
そんな夜の街を何度も二人で堪能した。夜の街が二人を呼んでいるとさえ思い、入っていくことが、その日の始まりのように思えていたくらいだ。昼間はあくまでも、夜の時間の前哨だとしてしか思えない時は、夜に麻衣と待ち合わせた時だった。他の女性の時では決して味わえないものだった。
夜の街の明かりの中に消えていく二人の後ろ姿を想像する。行きつく先は、いつもの店であっても、その時々で、精神状態も違う。まるで違う店に赴く気がして、気持ちはいつも新鮮だった。
「二人でいれば、大丈夫さ」
夜の街に入る時、たまに、
「私、たまにこの景色が怖くなることがあるの」
と言っていたが、それは景色が怖いというよりも、景色に自分が染まっていくことが怖いのだろう。景色という字には色という字が入っている、夜の色に染まるという意味を、浩司は考えていた。
浩司は、麻衣の後ろ姿の向こうに、夜の世界を垣間見たのを想像したことが何度もある。一緒に自分が寄り添っている時もあれば、麻衣が一人だけの時もある。麻衣に寄り添っている男性が自分であることは分かっているが、どうしても主観的に見ることができない。そのせいもあってか。嫉妬心が燻っている感じがしてくる。
「浩司さんって、そんな風に見てるんだ」
麻衣に、自分の想像を話したことがあったが、その時に麻衣は、ニコニコ笑って、答えた。それは、興味津々の表情で、妖艶な雰囲気とは少し違っていた。夜の街に対してのイメージを自分がどのように抱いているか、麻衣も半信半疑なのではないかと感じる浩司だった。
「そんな私が、朝から浩司さんと一緒にいるなんて、少し違和感があるわね」
これから産婦人科に赴こうというのに、麻衣は朝の時間を楽しんでいるところもあった。それは浩司も同じで、お互いに朝から同じことを考えていることに、くすぐったさを感じながら満足していた。
浩司はコーヒーを普段に比べてゆっくりと飲んだ。普段は出勤前に、時々駅前の喫茶店でモーニングサービスを食べていくが、あまりゆっくりとした時間を過ごしたことはない。
本当はゆっくりとした時間を過ごしたいのだが、元々貧乏性なところもあり、会社に行く前であればなおさらのこと、つい気ばかり焦ってしまって、喉のどこを通ったか分からないことも少なくはなかった。
その日も、本当は子供のことで気が気ではなかったはずだ。すぐにでも産婦人科で確認したかった。麻衣には心配しなくてもいいと言っておきなから、自分の中で気持ちの整理がついていないのも事実だったからである。
コーヒーの熱さが喉に沁みている。ゆっくりと息を吹きかけて飲んでいるが、舌に熱さを感じ、少しやけどするくらいの方が自分らしいと思っていた。それでも、口に持っていくカップはゆっくりで、落ち着いた気分になれるから不思議だった。
麻衣はそんな浩司を見つめていた。目が離せないと言った方が正解かも知れない。ただ、その眼は落ち着きのない目ではない。いつものように、暖かい目で見てくれている。
夜の店での麻衣と、日中の麻衣とではこれほど違うものなのかと思うほどで、夜の麻衣は、妖艶な雰囲気の中で、完全に浩司にもたれかかり、委ねきっている。しかし、昼間の麻衣は正反対で、まるで姉のように、暖かい目で浩司を見つめてくれている。そんな時、浩司はまるで自分が子供に戻ったかのような錯覚を覚え、自分が麻衣に委ねているのだった。
「僕は夜と変わっているわけではないのにな」
というと、
「じゃあ、私が昼と夜とで違っているのね。でも、それが昔からの私の理想でもあったのよ。本当の私って、どっちなのかしらね?」
どちらが本当の麻衣であっても、浩司には何の問題もなかった。
「どっちも本当の麻衣さ」