彷徨う記憶
麻衣は性格的に、浩司の中で革命を起こさせるに十分だった。
それまで自分の好みだと思っている里美だけしか知らないことで、自分がどれほど内に籠った性格をしていたか、まったく考えたこともなかった。パッと明るく開いた花、四方に綺麗に開いた花は、展開図に示したよりもはるかに広く見えているようで、自分のすべてを包み込んでくる快感に、酔いしれてしまうようだ。
浩司は自分が饒舌ではないことを気にしていた。里美と話をしていても、次第に話題がなくなっていくと、まったくの無口になってしまい、言葉が出なくなってくる。何を話していいのか頭の中がパニックになっているのに、その様子はまったく表に出てこない。
――何か話さなくては――
焦りが汗となって滲んでくるが、その様子を里美が見ていて、浩司が苦しんでいるのが分かっていてもどうすることもできない。お互いに噛み合わないリズムは苦しさを生むだけだった。
それなら最初から会話がない方がマシだ。それなのに、よく何年ももったものだ。それは麻衣との出会いによって、浩司の性格が少し変わってきたことで、里美との関係にも新鮮な風が吹き込んできたことが、破局の危機を救ったのだから、何とも皮肉なものだ。
麻衣とは自分から話をしなくても、麻衣が勝手に話題を提供してくれる。浩司は相槌を打っているだけでいいのだ。だが、麻衣との会話のキャッチボールは、タイミングが素晴らしい。そのうちに浩司からも話題を提供するようになると、今度は、麻衣が一歩引くようになった。
里美との会話も、今まで何を話していいかなどと考えていたことがウソのように、浩司は饒舌になった。それにともなって、返事を返すことを少しずつ覚えた里美とも、会話になっている。一つリズムが噛み合えば、ここまで広い範囲で好影響をもたらすことができるなど、考えたこともなかった。
「浩司さんは、子供がほしいと思います?」
いきなりというか、唐突だった。ニッコリと微笑んだ笑顔に、
――まさか――
と思いながら、麻衣が深刻な話を、いきなり切り出すとも思えない。
かといって、まったくありえない話を麻衣がするはずもなく、戸惑いとも困惑とも言えない心境に、どのようなリアクションをしていいか分からなかった。
「子供、できたのかい?」
恐る恐る聞いてみた、ただ、麻衣はいつもピルを飲んでいたはずだ。妊娠の可能性がかなり低い。しかし、コンドームと違って、男性主体で、しかも形のあるものではないので、本人が、「飲んだ」と言っているだけで、飲んでいなくても、飲んだか飲んでいないかを証明することは難しい。
浩司は麻衣をじっと見つめた。
「生理不順には慣れているつもりだったけど、最近身体が重くて、しかも一か月近く遅れているので、さすがの私も不安になってきたのよ」
浩司はベッドの中での行動を思い出していた。
確かに浩司は、慎重派で、ピルを飲んでいると言われても、中に出すことはまずしたことがない。たまに、
「中に出しても大丈夫だから、今日は中にちょうだい」
と言われても、いざとなると、中に出さずにいた。欲求が高揚してくると、理性を呼び起こす瞬間があるようで、興奮を最高潮に迎えても、冷静すぎるくらいになっていることが往々にしてあった。
「どうして? いいって言ってるのに、私の気持ちに答えてくれないの?」
こんな時にオンナは、本当はホッとしているはずなのに、相手を責める言葉を吐くことがある、それは相手をさらに感じたいという思いからではないだろうか。答えが何であろうが、幸福な気持ちになっていることには変わりないだろう。
「僕は君を大切に想っているだけさ。それ以上でもそれ以下でもない」
麻衣の顔が満足げに笑みを浮かべた。だが、それでも次の瞬間、
「そんなこと言って、他の女の人を思っているんじゃないの?」
と、さらに浩司を困らせる。
「そんなことはないさ」
浩司もまんざらでもない。ここまで来ればお互いに気持ちが通じ合っていることを理解しているので、何を言っても怒ることはない。お互いに気持ちが通じ合っている時間帯での至福の悦びを感じていることだろう。
「病院、僕も付き合おうか?」
責任という言葉とは無縁であった、言葉の裏には、子供ができたできないは関係なく、一緒にいる時間の口実が持てたことが嬉しかった。
他の女性たちへの未練が頭に浮かぶ。もし、付き合っている女性の中で、妊娠してしまった人がいれば、他の女性とは付き合いをやめて、子供を宿してくれた女性と結婚しようと思っていたのだ。
妊娠して一緒になるとすれば、一番望んでいた相手は、麻衣だった、ただ、他の女性と別れることが前提なので、別れることになる中でも里美だけが気になっていた。
記憶喪失の里美を途中で置き去りにするような気がしたからだ。別れた後、どうすればいいかなど考えたこともなかった。
「私はいつも、浩司さんがいないと、ダメなんだって思っているんですよ」
と、里美は話していた。もちろん、本音だろう。だからといって、里美に子供ができて、結婚するとなると、いろいろ心配な面が浮き彫りになりそうで怖かった。
普通に付き合っている分には、さほど気にはならないが、結婚して、しかもいきなり子供を持ってとなると、制約や、今後の生活あるいは、お互いの性格面など、どれを考えても、不安が募るばかりだった。
浩司が付き合っている相手のことを、浩司はあまり詳しくは知らない。麻衣に関しては、男関係の話は聞いていたが、それ以外のプライベートな部分、そして仕事にしても、詳しくは知らない。自分から聞こうとはしなかったし、聞こうとしない相手に、わざわざ自分から話をすることもないだろう。
麻衣は、そんな浩司に対して、あまり気を遣うことはない。気を遣っていない代わりに甘えることにしている。だから深刻な話をあまりしないようにしていたし、するとしても、考えてからしてくれていた。そのほとんどは浩司とは関係のないことが多く、気も楽だったのだ。
二人の関係は、
「もし、僕が第三者で、麻衣と誰かが僕の役で付き合っているとすれば、嫉妬するよりも、そっとしておくかも知れないな」
「何それ、どういうこと?」
麻衣は浩司の琴南一瞬あっけにとられたようだったが、すぐに理解したのか、呆れたように、言った。
「だからさ。表から見ていて入り込む余地を感じないということさ。正面から見て、まず入れない。今度は横から、そして後ろから、そのどれにも、麻衣か、その男の目が見つめているような気がするんだ。バリアが張られているのかな?」
そう言って、浩司は笑った。つられて麻衣も笑ったが、
「そうかも知れないわね。でも、そんなにたくさん目があったら、気持ち悪いわよ」
「だから、余計に入り込まれないでいいじゃないか。まるで、田んぼの案山子のようじゃないか」
似たような会話を何度もしていた。内容に変わりはないが、たとえが微妙に違っている。微妙に違ったたとえを考えているのも楽しいもので、思い浮かぶと、この会話になった。
「結局僕たちって、飽きない関係なんだね」
「腐れ縁?」