彷徨う記憶
ひょっとすると、おばあちゃんが予言者で、おばあちゃんの言うとおりに占うことで、おじいさんの占いが成立していたのかも知れない。おばあさんが時々、
「浩司も大きくなったら、何かを感じることがあるんだろうけど、その時は、思った通りに行動しなさい」
と、言っていた。何のことだか分からなかったが、理解できない言葉を言われたということは覚えていた。とにかく、思った通りに行動すればいいんだと、おばあちゃんを思い出すたびに、そう感じていた。
麻衣が、浩司に自分から連絡を入れることというのは、珍しいことだった。
「今晩、空いてる?」
生理前なのかと思ったが、どうもそうではない。女性は生理前になると、男をほしがるというが、浩司も数人の女性と付き合って、そのことに確信めいたものを感じることができるほどであった。
麻衣の生理に関しては、把握している。あまり生理不順ではない麻衣は、言い方は悪いが計算が立てやすい。どちらかというと、里美が生理不順である。神経質な性格にともなって、記憶を失っているという思いが、無言のプレッシャーとなって。麻衣を追い詰めていうのかも知れない。
麻衣は、あまり細かいことは気にしないタイプで、浩司と付き合い始める前に付き合っていた男から、ピルを薦めらえて飲んでいたという。
「身体によくないから、そんなもの飲むんじゃない」
と、浩司に言われて、やっとやめたのだが、本人は、ケロッとしたもので、
――ピルのどこがよくないの?
と、言いたげで、キョトンとした表情にも見えた。
「だって、ナマでできるし、気持ちいいでしょう?」
堂々と言ってのけるが、本心からなのだろうか?
浩司と付き合う前の男は、相当なSだったようだ。麻衣への命令は絶対。麻衣も命令されることに違和感はほとんどなく、
「これが普通の男女付き合いじゃないの?」
と、浩司に言ったくらいだ。
麻衣は過去のことを隠すことをしない。聞かれれば率先して話をする。隠しているという気持ちはないが、聞いてくれないと、自分に興味がないのかと思うほど、浩司に対して最初から積極的だった。
前の男と別れたのは、相手の男が麻衣に飽きたからで、すぐに他に女を作ると、麻衣を捨てようとしたという。
そのあたりは麻衣の勘も鋭く、
「こっちから別れてやるわよ」
と、啖呵を切ったという。
「でもね、今から思えば、結局、あの男に言わされたのかも知れないわね。そういう意味じゃ、悪いオトコだったのよ」
「だから、僕と知り合えた?」
「ええ、きっと変な男と別れられた私にご褒美をくれたのかも知れないわね」
「誰から?」
「恋の神様」
麻衣との会話は、楽しいというよりも、愉快である。こちらが言いたいこと、向こうが言いたいこと、それぞれにすぐに分かるようである。それだけに会話が充実しているのではないだろうか。
麻衣は浩司に対して、あまり気を遣っていないように思えるが。どこかに怯えが感じられるのは、浩司の中にも、Sの気を見たからではないだろうか。
前の男ほどひどくはないが、従順で委ねたい気持ちをあらわにできる相手、それが浩司である。
「一緒にいるだけで、何も考えられなくなる。そんな人ばかりを私は探しているの。だから、時にはひどいオトコに当たってしまうかも知れないけど、本当に委ねたいと思える人が現れれば、それは、ずっと添い遂げることのできる相手になるかも知れないわよ」
麻衣が学生時代から姉のように慕っている女性がいるが、彼女から言われたのだという。
その女性とは、浩司は今までに何度か会ったことがある。
麻衣が最初に結婚した相手のことも、まわりは誰も反対しなかったのに、麻衣だけが心配した。かなり反対の意見を言ったが、麻衣には効かなかった。麻衣が結婚前に付き合っていた男、そして結婚した相手、どちらも、麻衣には失敗だったが、浩司に対してだけは、彼女も反対をしない。
「あなたにとって、きっと素敵な男性なんだと思うわ」
今までの二人から比べれば雲泥の差であった。
ただ、浩司はその時、里美がいた。それを知ってか知らずか、素敵な男性と言われた。痛いところを突かれたような気がしたが、浩司も本当は、麻衣のような女性を探していたのだと思っていたところだったので、皮肉には聞こえなかった。
その言葉を聞いた時、浩司の中で、麻衣という女性が、これからもずっと自分のそばにいてくれることを確信したのだった。
麻衣といつも一緒に出掛けたカフェに、今日は麻衣から誘いがあった。扉を開けるのはいつも浩司であったが、その日は、扉を開けたのは、麻衣である。その様子を見ながらあっけにとられていたマスターは、
「なるほど」
と、二、三度うなずきながら、微笑んでいた。どうやら、二人の関係はどちらが強いというわけではなく、先に声を掛けたり言い出した人が、先導する関係になっていることに気付いたのだ。
傍目から見ていると、完全に男性主導の関係にしか見えない。それは、すべてを最初に行うのが浩司だったからだ。しかし、たまにであるが、麻衣の方から誘いを掛けると、浩司は、素直に麻衣にしたがっている。それも新鮮で、お互いに、悪い気はしていなかったのだ。
二人が行くと席はいつも決まっている。奥の四人掛けのテーブルに二人で座るのだ。奥の方に座るのは浩司、そして、手前から向こうに向かって座るのが、麻衣だった。だから、麻衣の顔を知らない客も少なくはないのではないかと思われた。
確かに、浩司も麻衣も、お互いに一人では来たことがない。二人の待ち合わせ場所にしか使っていない場所で、常連となっていることで、店の人とも、二人共通の話題でしか、話をしたことがなかった。
浩司は浩司で、麻衣は麻衣で、それぞれ自分だけの店を持っている。浩司も麻衣も、その店には一人でしか行かない。自分の隠れ家にしている店だった。隠れ家だからと言って、店の人と、それほど話をするわけでもない。一人で飲みながら店の人と話をすると、どうしても愚痴っぽくなってしまうことを嫌ったのだ。
麻衣は、自分の隠れ家に、音楽を求めにやってくる。店内では、八十年代前半のロックが掛かっている。麻衣にすれば、オールディーズに分類されるジャンルなのだろうが、その頃の音楽には、学生の頃から興味があったのだ。
浩司の方は、どちらかというと、クラシックが好きだった。一人で行く店もクラシックが流れている店で、客も単独の客が多い、人と話を楽しむという客はほとんどおらず、純粋に音楽を楽しむ客が多いのだ、
ソファーも深く、店内の照明の暗さから、ついつい眠ってしまいそうだ。眠ってしまえば、なかなか目が覚めない。ひどい時には、自分のいびきで目が覚めてしまい、思わずまわりを見渡してしまったほどだった。
麻衣がおどけたように、大げさにソファーに沈み込むと、浩司も表情を和らげた。浩司にとって、麻衣のおどけた態度は癒しに変わる。そんな時の麻衣の表情を見るのが好きだった。