彷徨う記憶
由香は、どこか天然のところがあった。これが会社勤めのOLならば、上司や同僚、部下からさえもバカにされたり、陰口を叩かれたり、愛想尽かされたりしたかも知れない。しかし、スナックでは愛嬌で済まされるのだ、由香の場合は愛嬌にふさわしい笑顔がある。それは誰もが認めるもので、そうでなければ、店の看板娘と言われることはなかっただろう。
浩司も、最初由香が店の看板娘と言われていることを知らなかった。言われても、俄かには信じがたく、
「それ、何かの冗談?」
と、本人を前にして、敢えて言ってみた。
「うん、冗談だよ」
と、実に素直な回答が返ってきた。
この回答は、本当に天然なのか、それとも、よほど肝が据わっているかのどちらかだろうが、どう見ても、天然にしか見えなかった。
――天然だから、由香なんだ――
と、付き合い始めて、浩司は感じたが。天然という友達が身近にはいなかっただけに、浩司にとって、新鮮というよりも、興味深いものだった。興味深さが浩司の中で、由香に対してのイメージを少しずつ変えていく。そう、あくまでも少しずつであった。
これが、急激な変化であったら、浩司は由香と付き合おうなどと考えることはなかったに違いない。変わっていくのは分かったが、あまりにもゆっくりなので、想像していた変化よりも、かなり大きな変化が浩司に訪れたようだ。浩司にとって由香という存在は、友達を通り越して彼女となった。ただ、その間の空白は、一体どこに行ってしまったのか、自分でも分からなかった。
浩司は今まで女性と付き合うまでのステップとして、必ず友達というステップがあった。しかし、由香に対しては、友達というステップがなかったのである、ステップは自分の中で作り上げるものだというよりも、糧に形成されるもので、後になって、それが友達だというステップだったと気付くのだった。
天然の由香が仕事を辞める時は、度胸が行ったことだろう。
そのまま勤めていれば、まわりに気を遣う人はおらず、気軽にやっていけるものを、職場が変わることで環境が変わり、まわりすべての人に気を遣わなければいけない。何よりも、ほとんど全員が由香のことを知らないのだ。
新しい職場は、母親の紹介だと言っていたが、昼間の仕事だった。事務員ということなのだが、簿記の勉強をしたわけでもなく、机に座ってのデスクワークができるかどうか、想像してみたが、イメージがどうしても湧いてこないのだった。
由香は、人の引き立て役としては秀でていたかも知れない。場の雰囲気を和ませることも彼女の特技と言ってもいい。曲がりなりにもスナックで仕事をしているのだから、何か秀でたものがないと、なかなかもつものではない。
「天は二物を与えず」
というが、由香の場合は正反対のことわざがふさわしい。
「捨てる神あれば拾う神ありだな」
と、店の他の客からからかわれていたことがあったが、まさしくその通りだと、今さらながらに思うのだった。
その時も、まさしくその通りだと感じたが。由香に興味を持った瞬間はいつかと聞かれれば、
「捨てる神あれば拾う神あり」
と、皆からからかわれていた、その時だったに違いない。
スナックの女の子と、店の外で会えば、声を掛けてほしくない女の子と声を掛けられたい女の子ではどちらの方が多いだろう? 馴染みの客なら、声を掛けられると嬉しいかも知れないが、興味本位で声を掛けられるのを嫌う女の子は、なるべく放っておいてほしいと思うに違いない。
ある日、前を歩いている時、急に前から女の子が手を大きく振って、こちらに近づいてきた。まさか自分に対してなどと思ってもみなかったので、まわりを見渡せば、誰も何も反応していない。
浩司は、あまり視力のいい方ではないので、自分だと思っても、相手が誰か分からなかった。髪を後ろで結んだおさげ髪にしていた。手を目いっぱい開いてこちらに手を振る女の子は、まるで女子高生だった。
それが由香だと気付いた時、
――やっぱり――
と思ったのも事実で、確か昼の仕事を始めたという話を聞いた翌日だったと思う。もし、由香に会ったとしても、ビジネススーツしか想像していなかったので、普段着の由香はまったくイメージが違っていた。
由香がこれほど大きいと思ったことはなかった。思い切り両手を広げてこちらに向かって手を振っているのだから、当たり前であろう。
――そこまで僕に会えたのが嬉しいのか?
と思うと、自然と顔が綻んでくるのを感じる。由香は、他の女性たちと違って飾ろうなどという意識はない。ないわりに出来上がった形は芸術的なのだ。そういえば、芸術家と言われる人たちは一風変わっている人たちが多い。由香のその中の一人だと思うと、
――由香とこれからも一緒にいることができれば素敵なことだ――
と、思えるようになった。
浩司は里美とのことを忘れていたわけではない。むしろ、里美と由香を比較していたのかも知れない。里美には里美の魅力があり、由香には由香の魅力がある。しかし、里美のことを考える時、里美のことだけを考えることもできるが、由香と比較してみることもできる。しかし、由香に対しては、その時はまだ、里美との比較でしか、由香を見ることができないでいた。
もちろん、最初から由香と付き合うことになるなど、考えていたわけではない。由香を意識したとしても、それは友達としての意識だけで、付き合うなどという気持ちは起こるはずなどないと思っていた。万が一起きたとしても、由香を里美との比較としてしか見ることができないのだから、付き合うところまで行くはずはないというのが、浩司の考えだった。
「由香は、よく僕だって分かったね」
「うん、浩司さんだってすぐに分かったんですよ。だって、浩司さんが大きく見えたんだもん」
浩司は確かに慎重は百八十センチ以上あり、遠くからでも目立つのだろう。
「大きく見えた?」
「普段の浩司さんもお店では大きく見えていたんだけど、明るい時に見ると、特に大きく感じてしまったのよね」
――おや?
お店ではいつも敬語しか話さなかった由香が、明るいところでは、敬語というよりも親しげに話しかけてくる。これほど嬉しいと思うことはないが、やはり、明るさの中でひときわ目立つ何かが、浩司と由香の間には存在しているに違いない。
普段から天然を「売り」にしている由香だったが、時々、ドキッとすることを言うことがあった。
予言というには大げさではあるが、由香が、
「何となく予感がするのよ」
と言った時に口から語られた内容には、信憑性があった。
「今日、身近な人の中で、交通事故に遭う人がいるわ。気を付けた方がいいんだけど」
などと、漠然とした幅の広い「予言」をして、
「何をバカなことを言っているの。その人が誰なのか特定しないと、気をつけようもないじゃない」
と言われて、それ以上言い返しようのない由香だったがその時の表情がいつもの天然と違っていることは、誰もが口にしないだけで、気持ち悪く思っていることだろう。
「確かにそうね。でも、私の予感って、結構当たるのよ」