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彷徨う記憶

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 と言って、マスターが笑ったが、それは開き直った笑いではなく、本当に楽しくて笑っているのだ。人の顔色を見抜くのはどうも苦手な浩司だが、笑顔が本物かどうかを見抜く力は、人よりも秀でているのではないかと思う浩司だった。
「モダンバタフライ」には、女の子が常時三人いた。時間帯によっては二人になることもあるようだが、三人は多すぎるのではないかと思っていたが、客が増えてくるとそうでもなかった。何しろ常連で持っているお店である。客のそれぞれに贔屓の女の子がいるので、三人とも手放すわけにはいかなかったのだろう。
 最初にこの店に来る気になったのは、上司から連れていかれたクラブの帰りに、立ち寄ったことからだった。上司から連れていかれたクラブに、急に取引先の専務から連絡があり、
「すまない。急に接待の連絡が入った。今日は悪いが、一人で帰ってくれんか?」
 と言われたのだ。キープしたシャンパンは、呑んでいいということにしてくれていたので、
「安心して、このままゆっくりしていってくれ」
 と、肩を叩かれて、上司はその場を後にした。
 クラブに一人取り残されてしまっては、いくらキープを呑んでいいと言われたとはいえ、ゆっくりできるほど肝が据わっていない。第一、酒が喉を通らないだろう。
 かといって、すぐにお暇するのも、わざとらしい。ついてくれた女の子と適当に話をしてから、
「それでは私は」
 と、そそくさと立ち上がった。態度としては、落ち着いていたように見えるだろうが、内心では気が休まることはない。しかもそんな浩司の精神状態などは、海千山千のクラブホステスの皆さんには、すぐに分かってしまうことだろう。
「ありがとうございました」
 一斉に声が上がると、思わず手を振ってしまった。それが正しいことなのかどうなのか分からなかったが、そうせざるおえなかったのもその時の精神状態を表しているものであった。
 店の外に出ると、一気に寒気が襲ってきた。風の強さも感じられ、骨身に沁みるとはまさしくこのことだろう。
 二、三度身震いして、コートの襟を立て、
「さぶっ」
 と一言言い。寒空の中を一人、歩き始めた。
――こんなに表が暗くて、寂しかったなんて――
 クラブには車で乗り付けたので分からなかったが、表に出て、まっすぐ歩いて行く分には明るいところに出ていくという印象だが、駅に向かったり、大通りに出るために歩いて行く分には、寂しいところを歩かなければならなかった。
 ただ、目が慣れてくると、ところどころにお店の跡があるのが見て取れる。
――このあたりは、以前も活気があったのかな?
 と想像でき、それは、さっきまでいたクラブの存在が、このあたりの店の衰退に影響を及ぼしているのではないかと思うと、複雑な気分だった。
 店の中には、細々とであるが、経営している店もある。店の中には、照明があまりくらくない看板を出している店もあり、
――ひょっとすると、裏商売をしているのかも知れないな――
 と、もし、客が出てくるとすれば、どんな客か、見てみたいと思ったが、残念ながら誰も出てくる様子もない。気が付けばそこで二十分も費やしていて、すっかり身体が冷えてしまっていた。
――どこかのお店に入ってみるか――
 この界隈の店の相場が分からないのが不安であったが、
――嫌なら二度と来なければいいんだ。二万も三万も取られることはあるまい――
 風俗の中に、三十分、五千円ポッキリなどという如何わしい看板でもない限り大丈夫であろう。浩司は思い切って、限られた開いている店の中の一つに入ってみる決意を固めていた。
――どうせ、こんな精神状態で帰るのも嫌だしな――
 本当であれば、風俗に行くのが簡単なのだろうが、探す時に限って見つからないものである。もっとも、こんな路地に風俗があるとも思えないが、歩いてみる限りは確かになかった。
 その日はそのまま帰る気にはどうしてもられずに、
――どこかで手を打つか――
 と思い、飛び込んだ店が、「モダンバタフライ」だったのだ。
「今から思えば、危険極まりないよね」
 と笑いながらマスターに話したのは、常連になってしばらくしてからだった。
「どうして、佐久間さん。うちの常連になってくれたんでしょうね?」
 理由などない。いや、厳密にいえば理由がないなどありえない。どんなことにも理由はあるだろう。ただ、言葉にするのが難しいのだ。何といえばいいのだろう?
 この店で最近まで働いていた由香という女の子が、実は今は浩司と付き合っていたのである。
 店を辞めたのは、別に浩司と付き合い始めたからではない。店を辞めるまでは浩司と身体を重ねたこともなく、浩司自身、それほど由香を気にしていたわけでもなかった。
 だが、気になっていたのは由香の方だった。なかなかそのことを浩司に告白しなかったのだが、つい最近、告白した。
「本当は、もっと前から言いたかったんですけどね。なかなか言いそびれてしまって」
 由香は浩司と年はほとんど同じだった。それなのに由香は浩司に対して敬語を使う。
「別に敬語じゃなくっていいんだぞ」
 と言っても、
「いいんですよ。私が使いたいんですから」
 由香は、母子家庭で育ったことで、他人に対して敬語を使うことは必須になったと言っている。母親に対してもほとんどが敬語だという徹底ぶりだった。
 スナックのマスターも、由香のことを気に入っていて、
「由香ちゃんのような女の子を、大和撫子って言うんだろうね」
 と言っていたが、まったくの同感だった浩司も、ただ二、三度何も言わずに大きく頷くだけだった。
「マスター、おだてても何も出ませんよ」
 と、顔を真っ赤にしておちゃらけて見せた由香の表情は、まさに少女そのものだった。
「三十歳にはとても見えないよ。セーラー服でもまだいけるんじゃない?」
 浩司もおどけて笑いながら言ったが、実は半分本音だった。
――由香にセーラー服を着せてみたい――
 と思ったのは事実で、ただ、もし着せたとすれば、自分の中にあるSの部分が顔を出し、苛めてみたいという性癖が湧き上がってくるようで、想像しただけで、ゾクゾクしていた。だが、その思いを一瞬だけにすることができるのも浩司の性格で、その場の和みの中に、想像、いや、妄想したものをしまい込んだのである。
 由香が店を辞めることは、浩司はもちろん、マスターもいきなりだったという。いきなりと言っても、契約上の決まりは守っていたのだが、マスターにしてみれば、
「何か気に入らないことでもあるの? こんないきなり……」
 いきなりと思うのも無理はない。今まで一番店に馴染んで、長く勤めていたのが、由香だったからだ。
 由香が店を辞めた時、常連の何人かも店に来なくなった。それだけ由香の人気は高かったようだが、だからといって、店が傾くようなことは当然ない。新しい女の子も入ってきて、違った意味での活気が店にはみなぎっていたからだ。
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次