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彷徨う記憶

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 涙が口の中に入っていくのが見えたが、彼女は、軽く舌を出して、涙を自分で舐めているようだ。しょっぱさなどまったく感じない様子だが、舐めた時に見せた一瞬の表情に、大人の色香を感じたのも事実だった。涙を舐めた瞬間、ふっと彼女の身体が宙に浮いたような錯覚を覚えた。そのまま浩司に倒れ掛かっていくのだが、最初から身構えていた浩司には、彼女を支えることができたが、次第に身体に重みを感じるようになり、石のような重たさを感じさせるのだった。
 催眠術などのように、完全に本人に意識がないことを、重たくなっていく彼女の身体が示している。浩司は思わずまわりを見渡し、そこに彼女を蹂躙している誰かがいないか、探してみたのだった。
 彼女の顔が、「大人のオンナ」に変わっていくようだった。制服の少女というと、ノーメイクですっぴんというのが、浩司の印象だったので、戸惑いが少なからずあった。しかし、彼女から相変わらず目を離すことができずに、ずっと見つめていた。なかなか上を見上げることができずにいるようだったが、思い切って見上げたその視線は、いきなり、浩司の視線とぶつかったのだ。
 その表情にドキッとしてしまった。大人の表情の女性とあまり顔を合わせたことのない浩司には刺激的だった。しかも、こんな近距離で、どんなに抑えても聞こえてくる小さな吐息を聞き逃さないようにしようと、浩司は耳を必死に傾けていた。まわりの喧騒とした雰囲気が次第に静まり返っていき、二人だけの世界がそこには形成され、化粧の匂いが漂っているのを感じていた。
「あれほど、百貨店で嗅ぐ香水の匂いが嫌いだったのに」
 彼女の毛根から醸し出されているかと思うほど、香水には、女の香りが混ざっているかのようだった。上司に連れられて出かけたクラブで嗅いだ匂いを思い出す。そこで嗅いだ香水の香りが漂っていたのだ。
 クラブに連れて行かれた時、浩司は最初から最後まで戸惑いっぱなしだった。三十歳近くになっていたのに、まるで童貞に戻ったかのような感覚に、恥かしさで顔から火が出そうになったほどだったが、ホステスの人たちも心得たもの、客に恥を掻かせまいと、会話でうまく?いでくれた。それくらいはお手の物といった雰囲気で、さぞや百戦錬磨を思わせた。
 それでも、浩司にはありがたかった。ホステスとはいえ、彼女たちも一人の女性、視線を合わせれば微笑み返してくれて。その表情は、その場で救われた浩司の気持ちを和らげるに十分なものだった。
 スナックを思い出しながら、どれくらいの時間、電車の中で過ごしたことだろう。足もだいぶ痺れてきて、先ほどから足の痺れも止まらない状態だった。その時の浩司は、自分のことに精一杯で、隣の女の子を意識はしていたが、ほとんど見ているわけではなかったのだ。
 足の痺れが収まり、彼女のことを意識してみると、しばらく浩司に倒れ掛かりながら、意識が朦朧としているようだったが、今度は、本当に寝てしまったようだった。その表情は、純真無垢そのもので、浩司の胸の鼓動は早鐘のように高鳴っていった。
 寄りかかった胸は服の上からでも十分に弾力を感じる。暖かさが伝わってくるのが感じられるほどで、肘が自分の身体から離れて、勝手に動いてしまっているようだ。
――このままではいけない――
 他の人の様子を伺ったが、幸いにもこちらを意識している人はいない。下手におどおどしていると、悪いことをしているわけでもないのに、いかにも不審者に間違えられてしまいそうだ。
 肘でついていると、彼女の胸の鼓動も感じられたが、次第に、その感覚がなくなってきた。どうやら、肘の振動と彼女の胸の鼓動が同化してしまったようだ。それを浩司は自分に都合よく考えた。
――これは彼女と僕が、波長が合っているということなんだろうな――
 一旦、信じてしまうと、疑うことを知らない。しかも、自分にとって不利で危険な状況にありながら、そんなことが考えられるのが不思議に思えた。
 しかし考えてみれば、こういう状況だからこそ、自分に都合よくしか考えられないのかも知れない。悪い方に考えてしまえば、どんどん悪い方に傾いていく。精神的に悪い方に傾いてしまうと、招かれる結果は、おのずと悪い方にしか向かないだろう。浩司は自分の考えに陶酔し、従っていくしかないと思うようになっていた。
 女子高生は、まだ眠りに就いている。スースーと軽い寝息を立てているが、この満員電車の奥に押し込まれている状況で、よく眠ることができるというものだ。
 浩司は、まだ、まわりを気にしていた。いくら、世間の人が自分のこと以外に無関心だとはいえ、女子高生にもたれかかられている状況で、少しでもおかしな動きをしてしまうと、それが発覚してしまえば、どんな言い訳をしても逃れられないだろう。
 浩司の頭の中に冤罪という言葉が浮かんだ。テレビのニュース、テロップが頭を巡る。
――公務員だったら、実名だろうな――
 自分が公務員でないことにホッとした浩司だったが、そんな問題ではないと、再度我に返っていた。
 浩司にとって、満員電車は今まで、鬱陶しいものだというイメージ以外には何もなかった。女子高生が気になることもあったが、自分とは実際以上に距離のあるもので、彼女たちから見れば、すれにおじさん。バカにされる姿が目に浮かんでくるが、そんな馬鹿げたことを想像していた自分の情けなさに、思わず溜息をついていた。
 胸の大きさは、麻衣を思わせ、下を向いたまま顔を上げようとしない素振りは、里美を思わせる、
――誰かもう一人、彼女の中にいるような気がするんだが――
 浩司は今自分が付き合っている女性を思い浮かべたが、その中にはどうもいないようである、
 確か里美と付き合い始めて、麻衣と出会うまでにもう一人付き合ったことのある女性がいた。浩司は今その女性のことを思い出そうとしていた……。

「私、そのうちに誰かに殺されるわ」
――なんと物騒なことを言う女なんだ――
 里美と知り合ってから、半年が経とうとしていた。里美はすでに浩司に馴染んでいて、浩司も里美一人いれば十分だと思っていた。
 ただ、男としての性を里美と知り合ってから感じるようになったことで、女性と知り合う機会が増えたことは否めなかった。
 上司に連れていかれたクラブ。その店に行ったのは一度きりだったが、その店の近くにあるスナックには、何度か通ったことがある。今ではそのまま常連となってしまった。
 店に名前は、スナック「モダンバタフライ」。和風の雰囲気が表からは見て取れたが、中に入れば洋風だった。
「騙しみたいでしょう? でもこれが私の趣味なの。お客さんが拍子抜けた様子を見せながら、すぐに冗談っぽく文句を言う。それが私には見ていて快感に思うくらいに楽しいことなのよ」
 三回目には、すでに常連になってしまっていた。ほとんどの客が常連なので、二回目に来た時点で、店側からは、常連の仲間入りだと思っているようだ。
「こんな僕でも常連なんですか?」
「もちろんですよ。このあたりはクラブなどの高級店が多いでしょう? 私どもには肩身が狭いところなんですよ」
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次