彷徨う記憶
表に一番出しているのは、麻衣だと誰もが言うに違いない。最初に里美を知らなかったら、浩司も麻衣が一番だと思ったことだろう。もっとも、里美が一番だと思ったのも、最初からではない、麻衣という女を知ることによって、里美が一番素直な女であることに気付いたのだった。
里美に対してそろそろ潮時だと思ったことを、本人は分かっているだろうか?
里美は、知っているように浩司には思えた。里美は勘が鋭いオンナだということは、浩司だけが知っている。浩司にだけしか心を開こうとしないのは、鋭い勘を他の人に知られたくないという思いも若干あるのかも知れない。
「里美は、本当に従順だね」
「嬉しい」
従順という言葉の意味を本当に分かっているのかと浩司が思うほど、里美の表情には感情が現れていた。他の人の前では決して現さない浩司の前だけでの里美の表情だった。
浩司は、麻衣と出会った頃のことを思い出していた。それは麻衣のことではなく、当時の自分のことだった。
当時の浩司は、里美とつつがなく付き合っていた。別に他に付き合いた女の子がいるとか、気になる女の子がいるわけでもなく、里美一人に満足していたのだ。
従順な女性をこよなく愛する自分の姿に酔っていたと言ってもいい。その頃に好きだった曲が浩司にはあったが、同じ曲を里美が好きだったというのも、里美に運命的なものを感じた一つだったのかも知れない。
その頃会社でも、プライベートでもあまりいいことはなかった。極端に悪いこともなかったが、未来を感じさせるものがないことは、苦痛だった。
いいことなのかどうか分からないが、今の浩司は未来について、さほど執着を持っているわけではない。
「なるようになるさ。いや、なるようにしかならないものさ」
と、時々自分に言い聞かせている。その回数も最近ではめっきりと少なくなってきた。それは今の快楽に溺れてしまっていて、先のことに対しての感覚がマヒしてしまっているからかも知れない。一度覚えた快楽は、手放したくないという思いが本能的に浮かんでくる。年を取れば未来が近くなってきて、考えることを怖がっているのかも知れない。
仕事は第一線の兵隊から、管理者になる。聞こえはいいが、
「自分でやった方が早いことか」
と、何度思ったことだろう。先輩も自分たちを見て同じことを思っていたのだろうが、第一線の者は、自分たちのことで精一杯、それが会社を支えていると自負していたものだ。
それなのに、実際に管理者になると、一生懸命にやるだけではダメだということを思い知らされる。一生懸命に仕事しやすい環境を作ってあげるのが、今度は自分の仕事になるのだ。
「一体、何からどう手を付けていけばいいんだ?」
この思いはストレスに繋がり、いずれは部下と上司に挟まれたジレンマになる。
会社でうまくいかないと、プライベートもうまくいかない。友達が少ない方だったが、次第に人と一緒にいることが億劫になり、家と会社の往復も辛くなる。何よりも時間が経つのが遅くなったのが一番辛いことだった。
嫌なことがあっても、なかなか忘れてくれない。
「時間が解決してくれる」
と言われるが、そんなのはウソで、解決してくれるはずの時間から、ストレスを溜める羽目に持っていかれるのだった。
「仕事と女、どっちを選ぶ?」
と聞かれて、迷っていたのは、第一線に身を置いていた時であろう。管理者となってからは、迷わず、
「女だ」
と答えることだろう。
だが、さすがに上司の前で答えるわけにはいかず、酒を呑んだ時、夢の中だけで叫んでいたものだ。
だが、夢の中で叫ぶ時、隣に誰がいたかが問題である。里美であれば、
「寝言だわ。疲れているのね」
と許してくれただろう。だが、これが麻衣であれば、簡単には行かない。皮肉の一つや二つは確実に言われ、頭を上げることができずに、屈辱の時間を味あわされて、何とか解放してくれる。
それでも、解放してくれるだけましかも知れない。他の女だったらと思うと、少し首筋に冷たいものを感じる。麻衣だからいいのだ。
麻衣は、言いたいことを言ってしまえば、後は従順である。
「浩司さん、さっきは苛めてしまって、ごめんなさい」
殊勝に頭を下げてくる。
――謝るくらいなら、苛めるなよな――
と言いたい言葉を笑顔に変えて、ニッコリと微笑むと、麻衣もにこりと微笑む。これが浩司と麻衣が離れられない心地よい関係なのだ。麻衣の性格は竹を割ったかのようにさっぱりしていて、分かりやすい。
――やっぱり、麻衣だ――
これが麻衣を好きになった最大の理由でもある。
――僕は、本当に麻衣に救われたんだな――
女というのがどういうものかを教えてくれたのも麻衣だった。里美は自分のことが分からないだけに自分のことで精一杯だった。そんな里美を大切にしてあげるのが、自分の勤めだと思っていたことが、当時の浩司の生きがいでもあった。
――麻衣と出会わなければ、僕は今頃、どうしていただろう? ひょっとしたら、里美とも続いていなかったかも知れないな。何が幸せか分からないけど、今の自分が不幸でないことだけは、間違いないようだ――
と、浩司は麻衣と知り合った頃のことを思い起こしていたのだった。
気になる女子高生が浩司のそばに立って、毎日の通勤が楽しくなっていったのは、浩司にまだ純情な気持ちが残っていた頃だった。ある日を境に、浩司は自分に純情な気持ちが薄れてきていることを感じていた。しばらくすると、また純情な気持ちに戻るのだが、そのきっかけが、自分の中に寂しさを感じた時だった。
寂しさは漠然としたもので、一抹の不安と言ってもいいだろう。
不安と寂しさは切っても切り離せない関係にあることに浩司が気付いたのは、その時が最初だったかも知れない。何度も思い出すことになるのだが、それは、逆を言えば、何度も忘れてしまっているからでもある。
不安は募っていくばかりのもので、完全に解消されなければ、心の隅で燻っているものであるが、減っていくものではない。寂しさも同じであるが、それを自覚することはあまりない。何かのきっかけがあれば、減っていくものではないかという意識もあるが、浩司には寂しさも不安と同じように募っていくものだと思うようになっていった。
気になる女子高生は、浩司の近くに寄ると、意識が遠のいていくように見えた。まるで催眠術に掛かったかのように扉にしな垂れ掛け、たまに顔を上げると、目はうつろでトロンとしている。視線はまったく定まっておらず、上気した顔は、はち切れんばかりであった。まるで熱でもあるのではないかと思うほど上気した頬に、光るものが流れていた。
――涙?
明らかに涙であるが、それほど苦しそうには見えない。むしろ、無表情な顔なのに、何かを求めているような雰囲気を醸し出していて、求めている顔をしながら、浩司を見つめているのだから、気にするなという方が無理である。