彷徨う記憶
じわりと視線を上げるくらいのことはあるだろうと思っていたが、参考書に集中すると、神経はそちらにしか向いていない。
――一つのことに集中すると、他は見えなくなるタイプなのかも知れないな――
これは、実は浩司も同じ性格だった。それだけに見ていて彼女がよく分かった。じっと見つめていれば、そのうちに何を考えているかということくらいまで、分かってくるのではないかと思えるほどだった。
――相手は子供じゃないか?
と、思ったが、浩司にとって、昔からのコンプレックスが今、思い出されてくるのだった。
浩司は、子供の頃、苛められっこだった。
小学生の頃から、中学二年生くらいまでだっただろう。いつ頃からというのは記憶が定かではないが、理由は何となく分かっていた。
苛められっこと言っても、社会問題になったほどの苛めではなかったのが幸いだった。ニュースなどを見ると、自殺に追い込まれた子供が後を絶たない様子だったが、それも氷山の一角だと報じていた。しかし、その氷山も、本当に自殺に追い込まれるほどの悲惨なものだけではなく、ひどくないものまで含めると、苛めに関係をしたことのない人はほとんどいくらいかも知れない。浩司の場合は、それほどひどくない中に含まれていたが、一歩違っていると、自分が苛める側に回っていたかも知れないと思うのだった。
苛められていたことで、非は自分にもあった。苛めがひどくない理由の中には、苛めの非が自分の方にある場合も含まれていることだろう。浩司の場合は、人に対して、まったく気を遣っていなかったことが一番の原因だった。
浩司は、何をするにも考えて、理屈に合わないことは疑問だけが残って、動かないタイプの少年だった。簡単に言えば素直ではなかっただけなのだろうが、自分に納得がいかないと動かないのだ。
まわりはそんな人を友達だなんて思ってはくれないだろう。何かあっても、誰も助けてはくれない。すると孤立した自分に対しての苛立ちよりも、助けてくれなかったまわりに対しての苛立ちが募ってくる。最初はまわりに対して何も言えなかったのに、途中から言うようになると、主張がまったく違っているので、話にはならない。まわりは当然理不尽に感じ、苛めに走るのも仕方がないというものだった。
「どうして、僕が苛められなければいけないんだ?」
と思ってみても、非が自分にあることに気付かない以上、まわりとは、交わることのない平行線を描くだけなのだ。一度描いてしまった平行線は、自分で意識できてしまうだけに、交わらないことも仕方がないと思って諦めてしまう自分がいて、そんな時のまわりとの距離は、想像もついていなかった。
苛められっこだった自分もまわりから少しずつ相手にされるようになったが、それでも、異性に興味を持つようになるのが、少し遅くなってしまった。
高校に入るくらいになって、やっと異性を意識するようになったが、それも理由としては、友達が女の子と一緒にいるのを見て、羨ましく見えることだった。女の子に対して浮かんでくる欲情ではなかったのだ。
羨ましさが次第に欲情に変わってくるのだが、それはやはり歪んだ感情だったのかも知れない。そのせいもあってか、女性と仲良くなれることはなかった。自分から話しかける勇気もなければ、女性に対しての目が羨ましさも含んでいたため、少し違った目線だったに違いない。
「あの人、気持ち悪い」
と、影では言われているような気がして、自己嫌悪に陥ったこともあった。確かに自分でも女の子を見る目に、欲情以外にも浅ましさが含まれていたように感じた。ただ、それは自分ではどうすることもできないことだったのだ。
浩司の友達に、
「女の子を紹介してやろう」
と言ってくれた人がいて、浩司も、
――これでやっと、羨ましくまわりを見ないで済みそうだ――
と思ったのだが、それは、最初から相手に好かれるという自分勝手な想像が抱いた妄想に過ぎなかった。
実際に会ってみると、会話などまったくなく、最初は、ウブな浩司を興味深げに見ていた相手の女の子も、次第にシラケてきたようだ。浩司の方も、相手に興味深げな目で見られたことで、余計に緊張してしまい、結局、一言も発することができなかった。
「こんにちは」
という最初の挨拶すらできずじまいでは、相手から愛想を尽かされても仕方がないというもので、せっかく紹介してくれた友達の顔に泥を塗ってしまったという罪悪感も拭えなかった。
「まあ、仕方ないさ」
と、友達は言ってくれたが、浩司自身、自己嫌悪に鬱状態が重なり、相当な落ち込み方で、立ち直るまでに、数か月かかったほどだ。高校時代の数か月は結構長く、無駄な時間を使ってしまったという意識が、今でも残っていたのだ。
そんな浩司が、高校三年生の頃、毎日が悶々としていた。受験へのストレスも重なり、自分の精神状態を把握できなくなり、ほとんどの感覚がマヒしてしまっていた。ただ、それは浩司に限ったことではない。その感覚があるため、なるべくまわりの人に感覚がマヒしてしまっていることを知られたくないという思いが強かったのだ。
だが、理由はそれだけではなかった。人に知られてしまうと、余計な気をまわりに遣わせてしまうという思いがあったからだ。浩司は別にまわりに対して義理堅いわけではない。人に知られて大げさに騒がれることを嫌ったのだ。大げさにされると、意識していないことまで意識せざるおえなくなってしまい、それが自分の首を絞めてしまうと思ったからだった。
いっぱいではち切れそうになっているはずの神経を持った浩司の目には、制服姿の女の子の姿は眩しすぎた。それは、はちきれそうに思えていた精神状態が、実は隙間だらけであることを示していたが、その時の浩司にそんなことが分かるはずもない。
胸の奥にしまっているつもりだったが、まわりにはこれほど目立つものはない。ほとんど誰もそのことについて触れる人はいなかったが、急に親友の一人に、
「それだけ女の子に目がいけば、精神的には大丈夫なんじゃないか?」
と、言われたが、
「そ、そんなことはないよ。僕ってそんなに意識した目をしているのか?」
「ああ、いやらしいまでの視線だけど、でも、俺は悪いことじゃないと思っているから、敢えてお前に教えたんだけどな。何も言わない人たちは気付いていないんじゃなくて、気付いていて、敢えて触れないんだ。そのことに触れること自体が、罪悪だと思っているからな」
顔から火が出るほど恥かしかった。でも、言われないと、気付いた時には遅かっただろう。気付かないなら気付かないでよかったのかも知れない。癖というのは、そう簡単に治るものではないだろうし、浩司自身、簡単に治るものだとは思っていない。何しろ、意識がないのだから、仕方がないというものだ。
――一生治らない癖なんだ――
その時にそう思ったのは、意識しても、治そうとまで思わなかったからだ。思った通り、その癖は今でも残っている。治そうとしないからなのかも知れないが、それ以上に、性癖として生まれながらに持っていたものなのかも知れないとさえ感じるほどなのだ。