彷徨う記憶
そういう意味では犬がいい戒めになった。まだまだ自分が若いと思っていても、どこかはキチンと落ち着いていないといけない年齢に差し掛かっているのだ。落ち着くというのがどういうことかその時は分からなかったが、
――若さとは、落ち着きがない証拠だ――
と、若さと落ち着きを比較している間は、まだまだ甘い若さを引きずっているのを自覚しているのだろう。
犬の相手をしながら、その日は、やけに犬が飛びついてくるのが気になった。その犬が雌犬であることは知っていたが、
「発情期なのか?」
と飛びつこうとするのを、頭を撫でて、なだめていた。
あまり嬉しいものではない。適当になついてくれるのは嬉しいが、飛びつかれるほどなつかれていると思うと、急に身体にだるさを感じた。足の裏から汗が流れているのを感じ、靴に包まれた足の先が浮腫んでいるかのようだった。髪の毛の間の毛根から湯気が立っているかのようにも感じ、頭が痒くて仕方がない感じもしてきた。
――文字通り、足の先から頭のてっぺんまでだな――
と感じた。
避けながら後ずさりしていたが、さすがに鬱陶しくなり、逃げるようにその場を後にした。今までこの犬に対して逃げるような態度でその場から立ち去ったのは初めてのことだった。逃げたことに対しては意識はないが、それよりも、中途半端でその場を立ち去ったことで、気分的にその日一日が冴えない日になってしまいそうな気分だったのだ。
電車の中にいても、気分は沈んだままだった。扉に寄りかかるように立っていたが、満員電車のために、身動きは取れない。それでも表を見ていれば流れる景色を見ることで、幾分か精神的に楽になれた。
しかし、その日は表を見ていても気分は沈んでいた。まわりに押されても力の流れに任せるだけだったのだが、その日は、気持ち悪さが身体に襲い掛かってくるのを感じた。
いつもの人がいつもの電車で、いつのもように揺れに任せて佇んでいるはずなのに、まったく知らない人たちに揉まれているかのように思え、
――他の人の身体から感じる体温が、これほど気持ち悪いとは思わなかった――
体温を感じると、人の身体は、今さらながら、
――本当に他人は気持ち悪い――
と、自分が潔癖症にでもなったかのように感じた。
浩司は決して潔癖症ではない。整理整頓ができないところから起因しているのだが、潔癖症の人が嫌う気持ち悪さというものを、最初から否定するような感覚になっている。そんな時、まわりの人全員が嫌いにしか感じない鬱状態に見舞われるのを感じるのだった。
鬱状態に入る時、普段なら入り口が分かっている。学生時代から躁鬱を意識していた浩司には、
――鬱状態は、定期的に襲ってくるもの――
として、諦め半分だった。
分かっているとしても、備えることはできない。精神的に同じレベルから見て、低いのを感じているのであれば、何とかなるのかも知れないが、違うレベルから、違う高さを見ているのだから、どうしようもない。鬱状態に陥ると、何をするのも億劫で、まるで水の中で必死に喘いでいる感覚だった。
歯を必死に食いしばっている感覚が襲ってくるが、それは、自分だけが焦っているのに、まわりが呑気なことへの苛立ちなのか、逆にまわりが焦っているのに、自分だけ乗り遅れてしまったことへの苛立ちなのかが分からない。それでもどちらかだと分かっていればいいのかも知れないが、中途半端な位置に置き去りにされてしまった感覚なのだ。
――これがジレンマというものなのかも知れないな――
まわりからではなく、自分の両側からだけ攻めてくるのに、前も後ろも身動きが取れず、迫ってくるものに対して対応ができないやるせなさ、それが中途半端な状態に陥った時の感情だった。
身体の横から迫ってくるものに対して、横を向くこともままならない。目だけを恐る恐る向けてみるが、とても最後まで見る勇気がなくて、途中で見るのをやめてしまう。そんな夢のような世界が、目を瞑れば繰り広げられているようだった。
――青い色は緑ではなく、完全な青に、そして、赤い色はより鮮明に瞼に刻まれている。そのわりに空気は淀んでいて、まるで黄砂が飛来した夕方のようだ――
矛盾した感覚であるが、いかにもジレンマに陥った時の感覚にふさわしいではないか。いつ果てるとも知らない不可思議な世界も、終わりが近づいてくる時も、前兆があるのだった。
黄色く淀んだ世界は、まるでトンネルの中のようだ。
黄色い照明が規則正しく等距離から光を発しているが、出口が近づいてくると、出口が見える前に、青い光が飛び込んでくるのだ。青い光は、それまでの黄色を真っ向から否定する色で、それほどのインパクトがなければ、鬱状態からは抜け出せないことを示している。そして、それまでの黄色い色がどれほど身体に苦痛を及ぼしていたのかを意識させるかのように、青さは雲一つない真っ青な空を感じさせるほどのものだった。
鬱状態への入り口という、少し嫌な予感を抱きながら駅へと急いだ浩司は、途中何度か信号に引っかかり、普段乗らない電車に乗る羽目になったのは、翌日のことだった。
普段と違う電車は、いつもの満員電車とは少し違い、人は多いが、扉の近くで立っている分には、それほど息苦しいものではなかった。
車窓からの景色も普段と違って感じられ、最初はずっと表を見ていた。そのうちに車窓から車内を見渡せるくらいの精神的な余裕があり、見渡してみると、昨日目が合った女子高生が、その日も浩司を見つめていた。明らかに意識して見つめる目をしていて、昨日は目を逸らされてしまったが、その日は目を逸らすことなく見つめている。次第に表情が柔らかくなり、こちらを見て微笑んでいるのが感じられるほどだった。
すると、その女の子が近づいてきた。声を掛けてくれるわけでもなく、ただ隣に立って、時々浩司を見上げるように見つめて、微笑んでくれる。
――まるで、天使のような微笑みだな――
と思えるほど、暖かなものだった。
柑橘系の香りが、鼻孔をくすぐる。化粧の濃さがあるわけではないが、香水の香りが柑橘系なのだ。普段はあまり柑橘系の匂いが好きではなかったが、満員電車の中で、甘い香りの香水がどれほどきついものかを実感してしまうと、今度は柑橘系の香りが新鮮で、暖かさを感じられるようになった。
満員電車の中では、普段は暖かさしか感じることのない甘い香りが、汗や体臭に混じって、薬品のきつい匂いだけを充満させる結果になるようだ。同じ充満させる香りであるならば、柑橘系の香りの方がどれほど心地よいかということを、浩司は初めて知ったのだった。
その日の電車の中は、サラリーマンやOLというよりも、学生が多く目立っていた。しかもほとんどが、ノートや参考書を開いて勉強してる姿が見られる。学生が多いわりに車内が静かなのは、どうやら皆勉強に勤しんでいるからなのに、他らなかったからだ。
気になる女子高生も参考書を片手に、目は参考書を負いながら、時々顔を上げて浩司を見つめる。一度見つめると、しばらく目が離せなくなってしまうのか、急にハッと思い立って、参考書に目を落とす。