彷徨う記憶
最近、浩司は通勤途中で寄り道をすることが多かった。そのため、いつもより一本遅い電車での通勤になったが、一本遅れるだけで、電車の混み具合は半端ではないくらいになっていた。もし、その娘と微笑み返すことがなければ、浩司は二度とその電車に乗って通勤することはなかったであろう。
浩司は、動物が好きである。特に犬は子供の頃から好きだった。猫派と犬派で、小学生の頃、言い争いになったことがあったが、普段物静かな浩司が、犬に関して熱弁をふるったことで、クラスメイトのほとんどが、目を丸くしてビックリしているほどだった。
家でも犬を飼っていた。室内犬で、毎日学校から帰ってくると飛びついてきたものだ。それが可愛らしくて、中学の頃は、
――彼女よりも犬がいればそれだけでいい――
と思っていたほどだ。
犬と一緒にいる時に何が楽しいと言って、お互いに顔を近づけて、鼻先をこすれ合うほどに近づけた時、犬の目が寄ってきているのを見るのが可愛らしかったことだった。
――きっと自分も同じ顔をしているんだろうな――
と思っただけで、表情が緩んでくるのを感じる。
駅まで向かう通勤路の途中で、最近気になっている犬がいる。セントバーナードのような大きな犬だが、たぶん、雑種ではないだろうか。別に血統書にこだわっているわけではない。むしろ、雑種の方があどけない表情をしていて、可愛いと思うくらいだ。
「犬と女、どっちが好きだ?」
と、聞かれると、思わず迷ってしまう、
「三度の飯と女では?」
と、聞かれれば、迷わず
「オンナだ」
と答えるくせに、相手が犬だと迷ってしまう。食欲よりも犬を選ぶところが浩司らしく、それはたまに感じる人間不信と微妙にかかわっているのかも知れない。
女を嫌いになることはないのに、人間不信に陥る。陥った時は、さすがに女を近づける気にはならない。もし女が近寄ってくると、露骨に嫌な顔をするだろう。幸いなことに、人間不信の期間は、女が寄ってくることはない。きっと浩司の表情から、近寄ってはいけないという感覚が、本能として湧き上がってくるのかも知れない。
家を出てから、駅までの約十五分の間、途中よりも少し行ったくらいなので、約十分くらい歩いたところであろうか。駅はすぐ近くに見えているので、
「あと少しだ」
という安心感からか、一度まわりを見渡したことがあり、その時初めて犬がいることに気付いたのだ。
――それほど、まわりを意識していなかったんだ――
と、今さらのように思った。
道を歩いている時、まず間違いなく、何かを考えながら歩いている。そんな時は目に飛び込んできた景色を、覚えていることはないと思うほど、集中力に欠いていた。考え事をしていると、
――乗り換えの電車の時間を気にしなければいけない――
という意識を、前の駅を発車する時に持っていたとしても、車内アナウンスが流れてきても、すでに意識は外れている。
――たった今のことだったのに――
これが記憶喪失に陥っている里美とは明らかに違うが、自分も注意力散漫が原因とはいえ、覚えきれないことへの苛立ちが頭を悩ませるのだった。
人間不信になっても、犬が嫌いになることがないのは、
――犬は裏切らない――
と思うことだ。
「動物は裏切らないっていうよな」
と、子供の頃、友達から聞いたが、動物すべてが裏切らないわけではない。全部の動物が裏切らないのか、分からないではないか。もっとも、人間も動物の一つだ。人間だけを特別に動物ではないというような考えこそ、人間の傲慢さなのではないだろうか。
だが、大人になると、裏切るのは人間だけのように思えてきた。本能だけで人は動くものではないからだ。だが、これも考え方によっては、人間の傲慢さなのかも知れない。
記憶喪失の里美を「拾ってきて」、一緒に住んでいる時が、ひょっとすると幸せだったのかも知れない。大好きな犬と一緒にいる感覚だった。女を犬と一緒にしてはいけないのだろうが、里美だけは、犬を見ているような感覚だった。それだけ、本能的なものを感じていたのかも知れない。
本能のままに生きる人間を、浩司は嫌いではない。
「人間は、本来、本能のままに生きるものだ」
と、友達の間で力説したことがあったが、まさしくその通りだ、里美を見ていれば、本来自分が目指していた生き方が分かってくるように思えたのは、事実だった。
だが、そう思いながらも、
「どこか違う」
と感じていたのも事実だ。
浩司が考えている本能のままというのは、欲望をむき出しにした感覚に近いものがあった。まるで野獣のごとく貪る感覚、それこそ、人間の本能だと思っていたのだ。
里美と一緒にいると、本能というよりも、純粋に忘れてしまったことを思い出そうとするわけでもなく、ただ生きているという姿に魅せられた。もっと言えば、欲望をむき出しにすることが悪いわけではなく、欲望をむき出しにすることに対して、いけないことをしているような目を向けることが嫌なのだ。
――本能とは、欲望を抑えつけるのではなく、うまくコントロールしていくことに繋がる素直で純粋な感覚――
と、浩司は定義づけていた。犬と一緒にいると、本能の何たるかを、もう一度原点に戻って考えることができると思っていた。
その日もいつもの犬が寄ってきた。足を若干引きずるようにして歩く姿は、少しメタボになっているからなのかも知れない。頭を下げて歩いてくる姿は、浩司に対して従属していることを示しているようで、尻尾を振っているのは、なついている証拠であった。
自分が支配している相手だという意識を持たされるが、相手が犬では、あまりありがたいことではない。犬が従順であるのは当たり前で、当たり前なのは嫌なのだ。犬が寄ってくる姿を見ると、痛々しく感じられるくらいで、ひょっとして浩司は、いずれこの犬も、浩司と同等の態度を取るようになるのを待っているのかも知れない。
この犬は、従順な相手は飼い主と浩司にだけだった。初めて見た時、浩司はスナックの女の子と一緒に歩いていた。その時に犬は女の子に対して吠え立てているのに、浩司に対しては、じっと見つめるだけで吠えようとしなかった。その眼は何かを探っているかのようで、思わず浩司も見つめた。
「何よ、この犬」
スナックの女性は、犬に対して言いたいことを、浩司に向かっていった。まるで犬に嫉妬しているようだが、その時の浩司はそれでもよかった。本当は、
――この女を今夜は独占しよう――
と思っていたのだが、結局ぎこちなくなり、その日はお互いに途中で別れ、二度と二人きりでどこかに行こうということはなかった。
――それほどいいオンナというわけでもないしな――
と、浩司は自分に言い聞かせた。少しはもったいないと思ってはいたが、後悔はなかった。それよりも妙にその時の犬のことが気になっていて、次の日に一人で犬を見に行ったくらいだ。
言い聞かせたというよりも言い訳だったのかも知れない。それ以降、どうも調子に乗らず、女の子をどこかに誘うなどという一夜のお遊びはピッタリとやめてしまった。すでに複数の女性と付き合うことに慣れてしまっていた浩司は、さらなる興奮を求めていたのかも知れない。