彷徨う記憶
いかがわしいおもちゃがあったり、拘束器具があったりと、里美は望んでいないものが目の前に並んだ時は、そこから逃げ出したい衝動に駆られたものだ。
だが、その時の浩司の表情は、いやらしいものではなかった。いつもの里美を求める表情と変わらず、熱い目で正面から里美を見ていた。
「怖かったら、いいんだよ」
「ううん、ちょっとビックリしたけど、頑張ってみる」
「ありがとう」
何を頑張るというのか、浩司を信じていれば頑張ることもないはずだった。それなのに「頑張ってみる」という言葉は、浩司に言っているというよりも、自分に言い聞かせていた言葉だった。
浩司は、その言葉に有頂天になった。里美にとってすべてが初めてのことで戸惑いがあったが。浩司に拘束されながら、実は自分が浩司を独占しているのだという思いがこみ上げてきて、幸せな気持ちにさえなった。
次の瞬間、里美は今までに感じたこともない快感に酔いしれることになるのだが。心のどこかで懐かしさが湧いてくるのを意識していた。
――きっと今感じたことは、絶対に忘れないわ――
実際にそれから浩司とベッドをともにする時、必ず思い出す。いつもアブノーマルではないので、物足りなくなるほどだが、そんな自分が恥かしくもあり、むずがゆさを感じるのだった。
――こんな私を、俊二さんには見せられないわ――
他の人にも、もちろん見せられるものではない。だが、それ以上に今は俊二にだけは見られたくなかった。
その時、里美は、浩司が自分と別れようなどと思ってもいなかった。
――どうやって、浩司さんと別れよう――
と、いつも思っていた自分が信じられない。身体の関係だけだと思っていたが、実際にはそうではなかった。今では浩司なしでは生きていけないくらいに思っているのに、瞬時に惹かれてしまった自分が一体何なのだろうと思わずにはいられない。
「里美は、時々宙を見ているようだけど、何を見ているんだい?」
図星をつかれてドキッとしたが、逆にストレートで聞かれた方が気が楽だ。
――明らかに俊二さんは、私の後ろに誰かがいることに気付いている――
と思っているからだ。しかし、
――それでもいいなんてどうしてなのかしら?
俊二の後ろにも女性がいるかも知れないことは、里美にも分かるような気がした。確信があるわけではないが、女の勘というやつだ。だが、自分の中では、
――私だけだ――
と思いたい。自分にも浩司という存在があるのに、身勝手なものだ。それを里美は女の性として見逃そうとしている。ただ、見逃そうとすればするほど、記憶を失った自分に口惜しさを感じる。
――失った記憶の中に、身勝手さを見逃そうとすることに、嫌悪でもあるのかしら?
と思えて仕方がない。
夕焼けを見ていて、時々涙が出てくることがあるが、夕焼けを見るのを決してやめようとはしない。それは、記憶を取り戻す原点が、夕焼けに潜んでいるように思えるからだ。
浩司と一緒に何度も見た夕日。浩司が好んで夕日を見る場所が好きだった。
――今日も浩司さん、一人で夕日を見ているのかしら?
そう思うと、その隣に誰か自分とは違う女性の影が見え隠れし、口惜しさが溢れてくる。ただ、その口惜しさは長くは続かなかった。里美にとっての浩司と同じように、浩司が一緒に見る女性も里美と同じように夕日に何か思い入れがあるのかも知れない。かなりの贔屓目だが、浩司の目に映る夕日の色は、いつも同じではない。それなのに、里美は思い出すことができる。いったいいつの目だったのだろうか?
里美が浩司のことを思い出している間、浩司は一人の女性と出会っていた。出会ったという表現には、いささか違和感があるのだが、女性というにはあまりにも幼く、制服の似合う高校生だった。
しかも、高校二年生で友達との間では元気なのだが、友達から離れると、急に静かになってしまう。引っ込み思案なのか、恥かしがり屋なのか、いかにも浩司の好みの女の子だった。
朝、通勤電車に乗ると、その娘はいた。たくさんの女子高生が満員電車の扉の近くに偏って、大きな声で話をしている。浩司はそれを横目で見ながら、いかにも鬱陶しいという気持ちを表に出して、睨みつけるかのようだった。
ただ、中には単独で扉に寄りかかるように立っていて、携帯を弄っている姿をところどころで見かける。いつも同じ女の子だとは限らないのはなぜだろう? 一人で乗り込んでくる女の子は、いつも同じ時間、同じ車両の同じ場所に佇んでいると思うのは、浩司の一人勝手な想像にすぎないのだろうか?
浩司は、電車通勤には慣れたものだったが、時々立ちくらみを起すことがあり、あまり好きではなかった。満員電車のムンムンとした熱気に、完全にのぼせてしまうことも少なくなかった。
なるべく女性から離れたと思っていた。化粧の匂いが明らかに自分に毒だと分かっていたからだ。
「そんなに気にならないのにな」
と、他の人は化粧の匂いをあまり気にしていないが、浩司には敏感に感じられた。
理由は分かっている。
あれは麻衣と一緒にデパートに行った時のことだった。一階にある化粧品売り場で、何時間も麻衣に付き合わされたことがあった。鼻孔は完全にマヒしていて、匂いを感じないところまで来ているほど、薬品の毒気に晒されていた。
浩司は麻衣に対しては優位に立っていたが、それはベッドの中でのことがほとんどで、表に出れば、麻衣に主導権を渡すことも少なくなかった、
――その方が、気が楽だからな――
と、思う気持ちと、相手にも優位な気持ちを味あわせることで、二人きりになった時、自分の優位を絶対的なものにしておけるのと同じような考えであった。
――毒にしかならないのに――
と思いながらも、楽しそうな麻衣の顔を見るだけで、浩司は嬉しかった。
浩司はタバコは吸わないが、駅ホームに隣設してある喫煙コーナーの近くから乗るようにしている。駅を降りてからの乗り換えに便利だからだ。毎日同じ場所で待っていると、それでも慣れてくるものだが、さすがにタバコだけは我慢できなかったりする。
喫煙室は自動ドアになっているので、誰かが出入りすると、しばらく空きっぱなしになってしまうことがある。なるべく人と目が合わないように、恨めしそうに睨みつけることが多かった。
そんな浩司を見て、二コリと笑った女子高生がいた。ポニーテールが可愛い女の子は、あどけない顔を浩司に向けて、目が合っても、逸らそうとしなかった。
思わず微笑み返した浩司だったが。その時に電流が走ったような衝動に駆られたのはなぜだろう? 二十歳代前半くらいまでであれば、女子高生であっても、恋愛対象として考えていたが、さすがに三十歳を超えると、変わってくる。というよりも、大人の女性ばかりを相手にしていて、その中で、あどけなさが残る女性が浩司は好きだった。淫行になってしまいそうな危険な相手を、今の浩司が相手にすることもないのである。
微笑み返すと、彼女はすぐに踵を返して、足元軽やかに歩いていった。まるでスキップするかのような歩みは、草原を跳ねながら歩いているアニメで見た少女のようだった。