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彷徨う記憶

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 そんな里美を浩司も高杉も気にしていた。
 高杉は、そんな里美の気持ちを理解できていないようだ。それも無理のないこと。記憶を失ったことのある人間でなければ、分かるはずのない理屈で、しかも、不安を横で見ていると、不安というものが、過去の記憶に対してのものだということを確信しているからに違いない。
「里美ちゃんの過去に何があったとしても、僕の気持ちは変わらないよ」
 と、優しい言葉を掛けてくれる。
「ええ、ありがとう」
 高杉の気持ちは本当にありがたいが、実際の気持ちを分かってくれていないことに一抹の不安を感じる。いや、逆に気持ちを分かってくれていない方が却って気が楽なのかも知れないとも里美は思う。里美が感じている不安自体、ハッキリとしたものではないのだから……。
 そういう意味では、浩司は里美が抱えている不安を、漠然とではあるが分かってくれているようだ。その証拠に記憶を失っていることについて、浩司は触れようとしない。それは、里美に対して、浩司の中で絶対的な余裕を持っているからだ。最初から里美に対して優位の気持ちを持っていたことで、浩司は里美のことを、何でも分かっているのだろう。気持ちに余裕を持てる浩司を尊敬できる相手だと思うし、本当に委ねることができるのは、浩司だけなのかも知れないとも感じていた。
 温泉に高杉と一緒に出掛けて、高杉に対しての気持ちよりも、浩司のことを思い出す方が多くなった。高杉への気持ちをハッキリさせなければいけないのに、浩司を思い出すのは、これ以上、高杉に甘えてはいけないと自分に言っているようなものではないか。里美は自問自答を繰り返しながら、高杉と二人だけの一夜を過ごし、大切な思い出として過去のものにしてしまう決意を固めようとしていたのだ。
 温泉には、それぞれ一人で入った。家族風呂も混浴もあったのだが、里美が強硬に拒んだのだ。
「どうして、そんなに拒むんだい? ここまで来たんだから、別にそんなに拒むこともないと思うけど」
「違うの、一人で考えたいことがあるのよ」
 里美は、高杉の目を正面から見つめながら言った。その言葉にウソのないことを、高杉は感じ取ったので、
「分かった。好きなようにすればいいさ」
「ありがとう」
 高杉の言葉は冷たく響いたが、この場では、下手に優しい言葉を掛けられるよりもよかった。優しい言葉を掛けられてしまうと、里美は自分が孤立してしまいそうに感じたのだ。それは、はしごを使って昇った場所から、はしごを外された気分になるのと同じように感じたからだ。
 里美が温泉に入った時、中は一人もいなかった。半分露天風呂になっていて、まずは、身体を流すと、迷うことなく露天風呂に入った。
 露天風呂は天然の石で造られているようで、温泉の性質からか、ヌルヌルして足を滑らしそうになりながら、ゆっくりと、身体を沈めていった。表の寒さに震えていた身体を、一気に温泉に浸けるのは、あまり身体によくないと思ったからだ。
 芯から温まるとは、まさにこのこと、立ち上る湯気を目で追いながら、ホッとした気分になると、しばらく湯気から目が離せなくなった。
――一体どこに行こうとするのかしら?
 湯気を見ながら、漠然としてだが、他の人は自分と同じことを感じないのだろうかと思いながら、身体から疲れが抜けていくのを感じていた。温泉は水質がかなりヌルヌルしていて、いかにも肌によさそうに思いながら、顔を洗った。温泉の熱さは冷たかった身体に次第に馴染んでいったが、身体の芯を無数の張りがつつくといった、くすぐったく微妙な痛みを含んだ、何とも言えない感覚に酔いしれていた。
 湯気には、影のような黒い部分が滲んでいるのが見えた。何かの影が映っているのだろうが、そこにいるのは、里美一人だけのはずである。
――幻なのかしら?
 幻が見えるのは、温泉という不思議な心地良さが、幻を見せるのだろうか? 幻だとしても見るとすれば、気になっている人の姿だと思う。それでは気になっている男性というのは誰なのだろう?
 今は高杉に対して興味を増している。気になっているというのとは少し違うような気がするのだが、一緒に来ている相手の幻を今さら見るというのもおかしなものだ。となれば、後は浩司のことしかないだろう。
――今頃、浩司さん、どうしているのかしら?
 浩司と一緒にいない間は、なるべく浩司のことを考えるのをよそうと思っていた。最初の頃は浩司のことを四六時中考えていたのだが、それは自分の中にある言い知れぬ不安が拭い取れなかったからだ。誰かのことを考えることで、少しでも気が紛れると思ったことが一番の理由だったのだ。
 だが、浩司のことを考えていると、どうしても、他の女性のイメージが頭に浮かぶ。他の女性を抱いているイメージが強くなり、嫉妬心がふつふつと湧き上がってくる。
 温泉で嫉妬心は、自殺行為だ。完全にのぼせてしまって、倒れてしまうかも知れない。それは分かっているのだが、ついつい浩司のことを思い浮かべた。
 思い浮かべた浩司の顔が、出てこない。煙の中に浮かぶ黒い影が見えるだけで、その向こうに誰かがいるようで、気配だけを感じる。煙に浮かんだ黒い影は、男の人の姿だとすれば少し大きすぎるように思う。浩司はそれほどの大きな身体ではないので、本当に浩司なのかどうか、疑問にも感じられた。
 温泉に浸かり始めて、どれほどの時間が経ったのか、ついさっき、温泉に浸かった気がしていたのに、すでに顔が茹で上がったほど、真っ赤になっているのを感じていた。お湯に浸かっている身体から、汗だけが流れ落ちる気がしていた。ヌルヌルとした温泉が、そんな気分にさせるのかも知れない。
 温泉から上がって、部屋に戻ると、高杉はいなかった。きっとまだ温泉に浸かっているのかも知れないと思った。ただ、彼の荷物の半分が、部屋から消えているのが分かったので、またしても一抹の不安が感じられるのだった。
 高杉は、温泉に浸かった後、ロビーでくつろいでいた。男性なので、女性ほど温泉に浸かっているわけではないので、温泉の酔い覚ましにソファーに座って、テレビを見ていた。
「俊二さん」
 その時、高杉に声を掛けてきた女性があり、高杉が振り向くと、そこには想像通りの女性が立っていた。掛けてきた声ですぐに誰かは分かったが。声を掛けるとすれば、その人以外にはいないという思いはあったのだ。
「こんなところまで……」
 振り向いた高杉の顔は、里美に見せる顔とは、まったく違うもので、二十歳そこそこの男性とは思えないほどの大人びた表情になっていた。ただ、その顔には困惑の表情が見え隠れしていて、声を掛けた人間の唇がにやりと歪んだのを、高杉は見逃さなかった。
――この女、こんな表情になるんだ――
 彼女は名前を祥子といい、高杉と同じ学部のクラスメイトだった。
 高杉が大学に入学してきて、最初に友達になったのが祥子だったのだが、元々声を掛けてきたのが、祥子の方だったのだ。
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次