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彷徨う記憶

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 高杉には強引なところがない。それが対等な立場で話ができるということで、話したい時に遠慮する必要のないことを教えてくれた。もちろん、相手が高杉でも遠慮はあるが、それも自分からしたいと思うことで、心地よさを感じることだった。遠慮とはあくまでも相手を煩わさないためにするものだとしか思っていなかったが、相手を思いやる気持ちを持つと、それが自然と遠慮に結びつくこともあるのだということを、初めて知らされた気がした。
――浩司が里美と同じものを持っているので、強引にされても逆らえない――
 という考えは当たらずも遠からじである、
 持っている同じものというのは、まったく同じというわけではなく、
――しっくりくるもの――
 という意味である、足りないところを補ったり、穴があればそこを埋めたりというものなのだ。
 磁石のS極とN極とでもいうべきか、引き合うところがピッタリと合うのだ。里美はそれを「主従関係」だと思った。
 もし、浩司に言えば、
「何だ、今頃気付いたのか?」
 と言って、笑われるかも知れない。
 浩司にとって、二人の主従関係は最初から暗黙の了解のようなものだったに違いない。里美も薄々気づいていたはずだ。気付いていて嫌な思いがなかったのは、それだけ自分が誰かに従属することを望む性格だということだろう。
 確かに誰かに委ねるというのは、気は楽だ。しかしプライドを持っている人間なら、心が痛むはずである。幸か不幸か里美は記憶が途絶えた部分がある。自分の本当の性格を図り知っていない。それゆえに他の人なら軽く受け流すような不安でも、一度抱いてしまうと増幅するばかりで、拭いようがない悩みを一生抱えて生きていくことを自覚している。本当は違うと思いたいのに、それが許されないのは自分の性格なのか、それとも記憶がないことの後遺症のようなものなのか、里美の悩みは尽きることがない。
 そんな時に現れた高杉は、巧みに里美の気持ちに入り込んだ。高杉は、それほど悪い人間ではないかも知れないが、現れたタイミングといい、その時の里美の精神的な弱みといい、天が与えたものに思えてならなかった。
「これって運命よね」
 と自分に言い聞かせるが、浩司との運命的な出会いの方が、インパクトは強かった。
「やっぱり、私は、浩司さんから離れることはできないんだわ」
 と、過去の運命を振り払ってまで、新しく現れた男性に運命を感じることは、里美にはできない気がした。
 里美が、高杉との関係を悩んでいた時、高杉から、
「一緒に温泉に行かないか?」
 と誘われた。
 今までの里美であれば、
「嫌よ。女の子もいるならいいんだけどね」
 と、二人きりになるのを避けていた。それなのに、高杉は性懲りもなく、何度も誘いを掛けてきた。しかも、今度は温泉ときたのだ。
――こんなに断っているのにどういうつもりなのかしら? 私がそのうちに一緒に行くようになるとでも思っているのかしらね――
 誘い方はいつも同じ調子である。明るく振る舞っているが、目だけは真剣に見える。それでも里美が断ると、
「そっかそっか、ごめんね。今言ったこと、忘れてくれていいからね」
 完全に、恥かしがっていて、しどろもどろだ。ついさっきまで真剣な表情だった人が、手のひらを返したように、忘れてもいいからというのは、おかしなものだ。
 だが、里美は、そんな高杉が気に入っていた。純粋さは素朴だとも言える。純粋さを見ることができても、素朴さまで見えてくる人は、里美のまわりにはそれほどいない。いつも浩司と一緒にいるから、余計に高杉が新鮮に見えるのだろうが、共通点の多い二人なので、浩司に対しても、思わず素朴さを探してみようとしていた。
 温泉に誘われた里美は、
「一泊だけなら」
 と承知した。いつも断ってばかりでは気の毒だというよりも、確実に好きになり始めている人への自分の気持ちがどこまで真剣なのか、試してみたいという気持ちが大きいのかも知れない。
「一泊だって構やしないさ。俺は里美ちゃんと一緒にいる時間が長ければ長いほど、それだけで幸せなんだ」
 まるで子供が精いっぱい背伸びしているかのようであった。話しているその態度は勝ち誇っていて。誰に対しての勝ちなのか、里美はおろか、当の本人である高杉にも分からなかった。
――記憶の断片でも思い出せるかも知れないわ――
 それは、里美だけでなく、高杉も感じていたことだった。
 近場には、結構いい温泉もあった。
「探せばあるものね」
「うん、結構穴場の温泉もあるんだよ」
 と、高杉が話すように、彼が探してきた温泉は、観光ブックに載っているような有名なところではなく、お忍びで旅行するにはもってこいのところであった。いわゆる「訳アリ」の客が多いようで、中年の男性と若い女の子のカップルが他に泊まっていた。
「上司と部下かしらね?」
 と、里美がいうと、
「いや、学校の先生と、生徒という設定を僕なら思い浮かべるね」
「上司と部下というよりも、淫蕩な感じがするわね」
 高杉と、里美、他の人たちから見れば、どう見えるだろう? 高杉の方が明らかに若いのだが、主導権は完全に高杉だった。
――最初に出会った時は、あんなに初々しかったのに――
 初々しい高杉に新鮮さを感じ、興味を持ったはずなのに、今では高杉に委ねている。
――委ねて慕っているのは、浩司さんのはずじゃなかったのかしら? だったら、浩司さんだけでいいはずなのに――
 と、考えてしまう。
 しかし、好きになった相手が変わっていくのも仕方がないことなのかも知れない。それに、同じ委ねるとしても、微妙に委ね方が違っている。浩司に対しては、最初に自分の弱い部分を前面に出して付き合い始めているのだから、恥かしさは暗黙の了解になっているのだが、高杉の場合は同じ恥かしさでも、見られたくないと思う恥かしさだ。
 見られたくないと思いながらも、見てほしい自分がいるのも事実で、そんな里美を高杉は、余裕を持った目で見ている。里美にたまらない気持ちにさせ、委ねる気分にさせるのだ。
――私に記憶がないことを、分かっていて触れないようにしてくれる浩司さん、そして分かった上で、何とかしようとしてくれる俊二さん。どちらの気持ちもありがたいんだけど、私が本当に欲しているのは、どちらの男性なのかしら?
 記憶喪失だけに関してではなく、次第に自分の気持ちの移り変わりを、心の中で反芻していた。そしてあくまでも自分に対して態度を変えようとしない浩司と、気持ちに忠実に態度を変えてくる高杉のことを、自分を客観的に見ながら、遠目で見ることで、全体を感じようとしているのだった。
 里美は時々考えることがあった。
――もし、記憶喪失が治って失った記憶が戻ってきた時、記憶を失っていた後に生まれた記憶って、どうなるんだろう?
 それは、浩司と作り上げた記憶であり、さらに、これから高杉とも作り上げようとしている記憶である。
 少なくとも、今の自分にとってはすべての記憶であり、絶対に失いたくないものであった。過去にどんな記憶があるとしても、今の記憶は代えがたいものである。時々鬱状態になることがあったが、それは記憶について考えた時のことであった。
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次