彷徨う記憶
という言葉があるが、幸せな時ほど、不安が押し寄せてくるようで、いつも最悪の場面を思い浮かべてしまう。
幸せと背中合わせにある最悪の場面、想像を絶するものだろう。思い浮かべたとしても、不安が募るだけで、実際にどのようなもので、どんな精神状態に陥ってしまうか、自分でも分からない。恐怖が頭を巡り、また、同じ場所に立ち戻る。繰り返された堂々巡りは、いつしか感情をマヒさせるほどの大きな効果を、自分の中に植え付けるのであった。
里美も、気が付けばいつしか、彼のことが気になっていた。純情なところが心を打ったのだろうが、何よりも彼に対して懐かしさを感じたのだ。
彼は名前を高杉俊二と言ったが、里美は高杉のことを、
「ちょっとおかしな人がいるの」
と、まるで他人事のように、浩司に話していた。
里美は最初、本当に他人事であった。浩司も高杉の話をする里美に、何ら違和感を覚えることもなく、ただの同僚の話をしているだけだと思った。逆に、今まで会社の話を浩司の前ですることなどなかったことが、浩司には少し気になっていただけに、却って安心したくらいだった。
――里美もだいぶ明るくなってくれたんだな――
自分一人で里美を独占したいという思いは男性なら、誰でも持っているものなのかも知れない。だが、浩司もその頃には複数の女性と付き合うようになっていて。後ろめたさがなかったわけではないだけに里美が会社の話をすることに、後ろめたさが少しは解消された気分になっていた。
本当に他人事のように話す里美だった。それだけ心の中に自分以外のことは完全に切り分けていて、浩司のことも、疑う余地すらないように感じられた。ある意味、里美のことを、
――都合のいい女――
という目で見ていたのかも知れない。そのことは里美にもウスウス気が付いていた。案外、冷たい態度に関しては敏感だったりする。それでも普段から無表情の里美は、心に思っていることを表に出さない方法を生まれつきのように持っていたのだった。
高杉は、本当に純朴だった。それだけに、他人に言わせると、
「まったく気の利かない男よね」
と、思わるほど、その場の態度がまったくピントの外れたものだったりするのだ。
里美は、高杉を見ていると、出会った頃の浩司を思い出すのだった。浩司自身は変わっていないつもりでいるようだが、実際には、里美に対して取る態度は大きく変わっている。そのことは本人たちよりも、むしろまわりにいる人の方が敏感に感じているようで、浩司に対しての視線の方が、まわりからは、厳しいものになっていた。
浩司が、最近里美に対しての態度が変わってきたのを、里美自身は、自分が高杉を気にし始めた証拠だと思っていた。実際には、浩司の方が後ろめたいことがあるのだが、里美も自分の中に態度の変化によって、違った感覚が芽生えてきた。
お互いに距離ができたのは、その時からだった。距離が生まれたのだと思っているうちは、まだよかったが、そのうちに亀裂が生まれたことに気付くと、不安がさらに増幅された。先に亀裂を感じたのは、里美の方だった。言い知れぬ不安は誰かに救ってほしいというもので、それが浩司であり得るはずはない。それなのに、里美の中には不安を感じた時でさえも、頭に浮かんでくるのは浩司の顔だけだった。里美にとって浩司は、不安を感じた時にそばにいてくれる、そんな存在だったのだ。
だが、今の浩司には、どれだけ里美の不安を解消してあげられるものがあるというのだろう? 逆に不安を煽る行動を取っているのは浩司であった。里美は浩司が自分以外の女性と付き合っていることを知っているはずで、そのことに不安を感じたことなどなかったはずなのに、一体どうしたというのだろう。
その頃、浩司と付き合っている女性たちの間でも、交流が深まっていた。浩司という男性は、独り占めにしたいという女性がいたとしても、寄ってくる女性同士が途中で仲良くなったりして、なかなか独占欲を表に出そうとする人は少なかった。それが浩司の性格であり、役得でもあるのだろう、そうでもなければ、一度に複数の女性と付き合いながら、不安を感じることもなく、うまくやっていけるはずもないからだ。
だが、逆に浩司は、本当の落とし穴を知らないのかも知れない。本当は薄氷を踏んでいるにも関わらず、重なっている偶然だけのおかげで、今まで痛い目に遭っていないだけなのかも知れない。もしそうだとすると、浩司は、これからの自分の人生も、
――何とかなる――
という悪しき精神が最後にはモノをいい、うまくいかなくなった時に、どれほどの抵抗を示せるかを思えば、他人事で見ることすら、怖い状況なのだろう。
しばらくして、浩司は、それまでのペースが少し崩れていることに気が付いた。元々、自分のペースを意識しているわけではなく、無意識にペースを作り、気が付いた時には、
「意外と僕って、規則正しいペースを保っているんだな」
と思うのだった。自他ともに認める整理整頓ができない男なので、さぞや、生活リズムも適当なのかと思っていたが、自分の中で無意識にリズムが作れるところは才能の一つではないだろうか。
逆を言えば、整理整頓ができずに、リズムが適当であれば、救いようがない。少しでも不利な立場に立たされると、ロクなことにならないのは火を見るよりも明らかではないだろうか。今までの浩司は、気が付いた時はいつも規則正しいペースであることに安堵し、それが気分転換となるのだが、その時は、ペースの崩れを感じたのだ。
焦りに似た不安を感じた。本当であれば、安堵のための安心感が生まれることを想像していることから、よほどの違いがなければ、そこまで焦りを感じることはない。ちょっとした違いであっても、大きなものだと考えるならば、それは客観的に自分を見ている証拠ではないだろうか。
大きな違いであれば、自分が一番よく分かる。それだけに小さな違いは普段なら気付かないものだ。そこに気付くということは、大きな違いに気付いてしまった自分を客観的に見て、次第に表から見ている自分が本人に乗り移る感覚である。乗り移る感覚を、目を瞑って感じていると、衝撃もなく、スッと入り込む。身体の奥から次第に自分を意識し始め、焦りのための汗が、滲み出ているのが分かってくる。
リズムの違いは、里美が影響しているというのは、客観的に見ていた自分がいなければ分からなかっただろう。自分の目だけでは見ることのできないものを客観的に見ていた自分は感じることができるのだ。里美が今までのように従順ではなく、浩司と対等な位置に立っていることが焦りに繋がっていた。今まで、自分は対等だと思っていて、里美の従順さを役得として受け入れていただけだと思っていたことがウソだったことに気付いたのだ。
ある程度の優越感は仕方がない、しかし優越感は上下関係ではない、対等なつもりだった。
「そういえば、里美の表情のいくつを僕は知っていたというのだ?」
感情をあまり表に出さないのが里美の性格で、記憶のないことが性格に拍車を掛けていたのだと思っていた。