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彷徨う記憶

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 浩司はその苦しみを顔に出してはいけない。浩司が苦痛の表情を見せるのは、里美からすれば何に浩司が苦しんでいるのか分からないだけに、苦痛なのだ。要するに、お互い相手を想って、苦痛を分け合っている形になっている。ただ、それは決して交わることのない平行線と同じで、どちらかが歩み寄らない限り、消えることはない。それならば、敢えて苦痛を背負い込むのは浩司の方だと覚悟していたのだ。
 だが、逆にストレートに聞いてみるという選択肢もあったはずだ。最初に打ち消したのは、まだまだ考えが浅い時だった。次第に考え抜いていく頭の中では。最初に否定したことがよみがえってくることはない。選択を誤ったというより、仕方がないことだったのだ。今さら言っても後の祭りではあるが、決断を誤れば、事態の悪化を招くこともあるということが分かってきた。
――里美という女性がもしいなかったら、僕はどうなっているだろう?
 と、考えたことがあった。
――何人もの女性と付き合っている中の一人――
 というだけでは割り切れないものがあった。
 いないと気になってしまう。そばにいる時は、いて当然だという意識なのだが……。
 果たして最初からそうだったのかと聞かれると、絶対に違っていたはずだ。最初に感じた里美への思い、それは、
――神秘的な女性――
 というイメージだったはずだ。
 確かに、今まで出会った中では、里美のような女性はいなかった。
「行くところがないの」
 と言われた時に、ドキッとしてしまったのを、忘れてしまったというのだろうか。
 優越感だけではなかったはずだ。可愛らしさ、いじらしさ、怯えながらも浩司を慕っている目は、本物だったはずだ。何とかしてあげなければいけないという思いは同情だったかも知れない。「いけない」という言葉がついている時は、同情から自分の中で義務を課していたのかも知れないが、それ以外は、里美に対してのいじらしさと、いとおしさからの自分の内側から出る愛情だったに違いない。里美が次第に浩司に馴染んでいき、話を対等にできるようになった時には、
――他の人には表さない態度を、自分にだけしてくれるんだ。それが里美の僕への愛情表現なんだ――
 と思った。
 本当は、知り合ってからの最初の頃のことを思い出すこと自体、里美にとって重荷になっているのかも知れない。自分のことで分からないことが多いわりには、鋭いところがあったりする。いや、却って自分を分からないだけに、まわりに敏感になり、気を遣うことで敏感になっているのではないだろうか。そう思うと、里美という女性が気の毒に思えてきた。
――いや、それでは結局同情に立ち返ってしまう――
 では、一体どうすればいいというのだろうか……。
 里美の記憶が戻ることは、本当であれば喜ばしいことだが、そのことに浩司は決して触れようとしない。
「もし、過去に傷を持っていれば、わざわざ今さら掘り起こすことはないんだ」
 というのが、浩司の考えで、そのことに、まわりもあまり口出しできないでいた。
 それだけ、浩司と里美の間にはまわりの人が入り込めない空間があった。丸く広い空間があり、その中のどの位置に浩司がいて、里美がいるか、分からない。浩司だけが里美をよそに、遊びまわっている感覚があるのだが、実は里美は、浩司の気持ちを分かっていて、見逃していたのだ。下手に浩司に対して文句をつけようものなら、
「じゃあ、別れよう」
 と言われかねない。本当は浩司がそんなことを言うような人間ではないことは分かっているつもりではいたが、自分の考えに自信が持てない里美は、強く言えないのだった。
 それよりも、浩司の楽しい顔が見れればそれでいい。浩司は里美には甘く、思い切りわがままも聞いてくれたりする。それが浩司にとっての優越感であることは里美に分かるはずもなかったが、浩司としても、ただの優越感だけではなかった。ただ、里美を自分の「所有物」という感覚でいることは確かで、里美が何も言わないことをいいことに、好き勝手やっているというのも事実だ。里美に対して悪いと思ってはいるのだが、絶対的な優位に立っている浩司には、今の立場を捨てる勇気はなかったのだ。
 浩司に「拾われて」三年が経って、里美は仕事場で、自分を好きになってくれる人に出会った。最初は彼が気になっていることを分からなかったが、相手は恋愛に不器用なまだ二十歳の学生だった。アルバイトの立場ではあったが、里美にだけは対等に接していた。他の正社員に対してどれほどへりくだった態度を取っても、里美に対しては、恥かしいとは思っていなかったのだ、
 彼に対して、里美はまったくの無表情だった。いや、里美は彼に対してだけではなく、誰に対しても無表情なのだ。そんな里美に対してその男は最初、
「なんて無粋で失礼な人なんだ」
 と思っていた。たとえ先輩社員であっても、失礼にもほどがある。里美に対する時だけは、自分が学生だということを忘れてしまっていた。
 里美が、誰に対してもいつも一線を画していることに気付いた彼は、里美から目が離せなくなってしまった。その思いがそのまま好意を持つということに繋がったわけではないが、気になってしまうと、四六時中考えてしまうタイプだったようだ。
――どうして俺があの女のことで、気を揉まなければならないんだ?
 苛立ちにも似た感覚が、自分の考えを打ち消していることに気付いていなかった。
――打ち消していること――
 すなわちそれは、自分が里美に興味を持ってしまったということである。
 彼には別に、学校でも好きな女の子がいた。付き合うところまでは行っていなかったが、同じサークルで、結構会話も弾み、二人だけの時間も持てたりした。ハッキリとした告白まではしていないまでも、お互いに付き合っているという暗黙の了解が、まわりの人たちにも蔓延しているようだった。
 それなりに充実した学生生活を送っている彼が、なぜか里美に惹かれていた。里美が今の会社で社員として働くことができているのは、少なくとも浩司の口添えがあったからだ。学生時代の友達の会社がちょうど事務員を募集していたこともあって、紹介したのだが、その会社の社長が、浩司の働いている会社とまんざらではない関係にあったことも手伝ってか、採用にはさほど問題はなかった。
 過去の記憶が欠落している部分があることは隠していた。別に話す必要はないと思っていたが、後から思うと、少し心配でもあった。いつボロがでるか分からないという思いがあったのと、里美が自分の殻を作ってしまって、そこに閉じ籠ってしまうのではないかという危惧だった。
 後者の方が浩司には気がかりだ。前者であれば、会社を辞めれば済むだけのことだが、後者であれば、人間関係にしこりが残った上に、ますます里美を孤立させてしまう。それはどうしても避けたいことだった。
 もちろん浩司には里美に対しての愛情がある。長く付き合っていれば情も深まっていく。愛情とは違うものなのかも知れないが、愛情と同じところは、絶えず、最悪の場合が頭を掠めるということだった。
 浩司の心配性は、今に始まったわけではない。
「好事魔多し」
作品名:彷徨う記憶 作家名:森本晃次