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短編集36

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 ガイドブックを見れば旅行に出たくなる気持ちになるのは分かっている。せっかく仕事が楽しいのに、学生時代の気持ちに戻るのが嫌だったのだ。
 引き戻されると言った方が正解かも知れない。集中していることがあるのに、気持ちを他に削がれることを極端に嫌っていたのだ。
 しかも学生時代に戻るということは後ろ向きに生きるということである。一番の成長期に当たると思っているだけに、後ろ向きの生き方は絶対に嫌だった。
 今までに後ろ向きの生き方などしたことがなかった。今回の部署変えはある意味後ろ向きかも知れないが、モノは考えようで、気持ちに余裕を持つことができるという意味では、時間にも余裕ができる。趣味などに使う時間ができるということの嬉しさは、それまでどれだけ自分がいっぱいいっぱいの精神状態だったかを示している。
 彼女ができなかったことを考えてみた。一度真剣に考えた女性がいたが、その人を彼女と呼んでいいのだろうか?
――一体、毎日どんな顔をして暮らしていたんだろう――
 と鏡を見ながら考えるが、鏡を見ることだってほとんどなかった。見たとしても洗面台の前に写った顔だけで、通勤支度の合間に覗き込むだけだった。
 そこに写っていたのは、まったく無表情な男性だった。自分の顔であっても、これほどつまらない表情なら、誰も相手にするはずがないとさえ思えた。彼女ができないのも納得できるというものだ。
 学生時代と社会人になってからの違いに一番戸惑ったのは、朝の時間である。
 研修期間が終わり、それぞれ本採用になって新しい部署に配属になる。配属になった現場は想像以上に忙しいところで、朝などは皆戦争のような忙しさだった。
 皆、黙々と仕事をしている。無駄な言葉は一切なく、聞こえてくるのは帳票を捲る音やキーボードを叩く音だけ、声が聞こえるのは、掛かってきた電話に応対する事務員や営業の声だけだった。
 それもあまり明るいとは言えない。こんな雰囲気を一目見て、
――何というところに来てしまったんだ――
 というのが第一印象。しばらくその場に立ち竦んでしまった。
 それでも最初は誰も何も言わない。自分のことに忙しく、こちらから声を掛けることができる雰囲気でもない。
「何してるんだ、そこの新人。早くこっちに来い」
 と声を掛けられて、やっとその場の呪縛から解かれたような気持ちだった。
 翌年になって新人が入ってきたが、その頃には、今度は自分が見つめられる立場になっていた。しかもそのことに一切の疑問を感じることもなくである。
 楽しい仕事をしているという意識はあったが、見る人によってはまったく違って見えるかも知れない。黙々と仕事をこなしているつもりでも、あまり仕事を楽しくないと思っている人から見れば、嫌々しているように見えるだけかも知れない。それを感じたのは、自分が上司になってからだ。まわりを見なければいけない立場、現場の仕事を黙々とこなしていた時期にもう少しまわりを見る目を持っていればよかったという後悔が襲ってきていた。
 だが、もうそんな意識をしなくてもいい。プレッシャーから少しだけだが解放されると、まわりを見る目が一気に変わってくる。それまで自信がなくてできなかった部下への指示も的確にできるようになるのだから、気持ちの中のアイドリングがどれだけ必要かということを再認識していた。
 会社に休暇願いを出すなど、ここ数年では考えられないことだった。しかし、
「君はこれまで休みもあまり取らずに頑張ってくれたんだ。気持ちのリフレッシュするのもいいことだよ」
 という部長の言葉に救われた気がした。
 前の部署では自分に自信がないせいか、部長の顔をまともに見ることさえできなかった。別に卑屈になることなどないはずなのに、何かを言われて言い返せないだろう自分が目に浮かんでくると、とても目を合わせることができなかった。
 しかし、最近では部長から声を掛けられても、的確とまではいかないまでも何とか答えを導き出すことができる。自分に、少しずつ戻ってきた自信が嬉しかった。
 休暇願いは四日間、土日を含めると一週間近くになる。今さら学生時代の気分に戻っても仕方がないとは思ったが、今までで一番可能性を感じていた学生時代の気持ちに戻ることができるなら、それもいいことだ。
 会社の帰りに買ってきたガイドブックを見ながら眠りに就けるなど、今までからなら考えられない。眠っていても見る夢は仕事のことばかりだった頃がまるで夢のようだ。
 本を読んでいると本の世界に入り込むこともあれば、本の内容からいろいろな想像が頭を巡ることもある。その日はガイドブックを見ながら他のことに思いを巡らせていた。
 他のことといっても、旅行にまったく関係のないことではない。先日同僚と呑みに行った時に聞いた
――時間の流れを感じさせないところ――
 まだ見ぬそんな村に思いを馳せていた。実際に村の名前も聞いていたし、大体の場所も聞いていたので、できればそっち方面への旅行を考えていた。最初からその場所に行こうとは思っておらず、
――旅の途中に立ち寄った――
 という程度の軽い気持ちが楽しみを倍増させてくれる予感がしていた。
 ガイドブックにも載っていないようなところで、客があるとしても口コミだけだろうという話である。宿は間違いなくやっているという話で、同僚は定期的に訪れているらしいが、今までに宿で自分だけが客だったということはなかったらしい。絶えず他にも客がいて間違いなく気配を感じるというのだが、不思議と顔を合わすことはなかったという。
 同僚からあまり詳しい話を聞いて、せっかくの旅の楽しみが半減してはいけないと感じ、それ以上は聞かなかった。
 寝床に入って、仰向けになって枕元のライトだけで本を読んでいると、いつもなら眠くなるのだが、ガイドブックを読んでいる限りではそこまでの睡魔は襲ってこない。
――これが小説だったら、とっくに寝ていただろうな――
 小説を読むのは嫌いではない。眠れない時が多かった前の部署にいた頃は、寝る前に小説を読んだりしたものだ。夢に出てくるのも小説の話だったり、仕事のことだったり、ひどい時には夢の中でストーリーが混在したりしていた。起きてからグッショリ掻いている汗にビックリし、
――また怖い夢を見たんだ――
 と思えてならない時期だった。
「一日のうちで一番好きな時間は?」
 と聞かれると、まず間違いなく、
「寝る前」
 と答えるだろう。そして逆に嫌な時間は、と聞かれると、
「起きる時」
 と答えるはずだ。だが、本当に疲れている時も果たしてそうだろうか? あまり夢見がよくないと、寝る前が果たして本当に一番楽しい時間とは言いがたいかも知れない。もし楽しい時間が存在するとするならば、それは以前と変わっていない生活パターンを感じている時に違いない。いくら一日中精神的にきついといっても、どこかで気分転換ができているはずだ。そうでなければ精神的に参っているだろう。自分で気付かないまま、きっと安心できる時間を無意識に感じているに違いない。
 朝は普段よりもかなり余裕があった。
作品名:短編集36 作家名:森本晃次