短編集36
休みの日だからといって、起きる時間は普段とあまり変わらない。仕事の日、目覚ましを掛けていても、起きる時は必要としない。気が張っているからかも知れないが、元々時間厳守な性格なので、体内時計がキチッとしているに違いない。
出かける時間を決めているわけではない。気ままな旅なので、いくつか電車の時間を調べておいて、起きた時間に合わせるだけだ。
テレビをつけて、洗面の前に立って鏡を見ながら、音だけ聞いていた。それは普段と変わらないが、鏡に写る自分の顔をゆっくり眺めることは久しぶりだった。
自分の顔が小さく見える。いつもは鏡を覗きこむようにしているので、鏡の中の自分が大きく見えている。だが、気持ちに余裕があると、鏡を覗きこむようなことはしない。
――今日はどんな表情をしているのだろう――
そんなことは関係ないのだ。仕事に行く時は朝から緊張している。自分にある程度の緊張感を持たなければいくら楽な部署とはいえ、やっていけない。休みの日は気分転換の日、それが鏡に写った自分の顔に出ている。
朝食はいつもの喫茶店と決めている。駅まで歩く途中の店、少し奥まったところにあるので最初は気付かなかったが、いつだったか、帰りに遠回りをしたことがあった。これも気分転換のつもりだった。
喫茶店には、暖かい雰囲気があった。
最初に入ったのは冬だったこともあってか、夜のしじまに包まれた住宅街の中でもひときわ目立つ喫茶店に暖かさを感じた。
表は白壁に塗られていて、月明かりの中、浮きあがって見える。思わず足が向いてしまったのも仕方がないことだろう。中に入ると表から見ているよりも暗かったが、それでも暖かさは想像以上だった。
コーヒーの香ばしい香りが店内に充満していて、夕食を食べながらのコーヒーをゆっくり堪能したものだ。話を聞くと早朝から開店しているという。翌日さっそくモーニングサービスを食べにきた。
朝は夜の雰囲気とは違い、朝日を浴びた白壁自体が眩しい。店内には常連のサラリーマンが数名いて、皆それぞれの時間を過ごしている。
新しい部署に変わって気分転換できたことが、この店を知るきっかけになったことには違いないが、この場所に最初に感じたのは、
――違う時間が流れている――
という思いであった。
喫茶店の時間はゆっくり流れている。皆ゆっくりとしているように見えるからで、時間が精神的なものを動かしているように感じる。
旅行の日も喫茶店に寄ってモーニングサービスを食べたが、気持ちはすでに旅先にあるのか、いつもほどゆっくりとした時間を感じることはできなかった。それでもワクワクしたものをマスターは感じたのか、
「光山さん、今日はご機嫌だね?」
と声を掛けてきてくれた。
「分かります?」
「ええ、そりゃあもう。いつもと比べて視線が遠くを眺めているように見えるからね」
「いつもはそうでもないのかい?」
「やっぱり、仕事の前の緊張感っていうのがありますよね。それは分かるつもりですよ」
マスターは元々サラリーマンで、時々自分が客だった頃を思い出すらしい。だからこそ、サラリーマンの気持ちは分かっているつもりで接しているから、サラリーマンの常連も多いのだという。朝会話がなくとも、ここにいるだけで他とは違った世界を感じることができる。
常連たちの最初はどうであっても、気がつけば自分がその世界を作っている。ここでは皆それぞれが主人公で、自分の空気を醸し出しているのだ。だから他の店とは空気が違って感じるに違いない。
光山も、最近になって自分が空気を作っていることを自覚し始めていた。
「光山さんの空気は緊張感の中にゆとりを感じたいという思いを強く感じますね。ストレスが溜まっていても、それをストレスとは感じないところがあるんじゃないかな? きっとそれが光山さんのいいところなのかも知れないですね」
「ストレスを感じないのがいいところ?」
「ええ、皆ストレスを感じるから苦しいんじゃないですか。それを感じないようにしているところは素晴らしいですよ」
「以前はそんなことなかったんだけどね。一つのことに集中すると他のことが見えなくなる。だから不安になって他を見ようとするんだけど、見えないから余計に不安が募ってくる。そんなことの繰り返しですよ」
ある意味、知らぬが仏である。
マスターとそんな話をするようになってから、違う空気をこの空間に感じ、馴染みになったといっても過言ではない。
モーニングをゆっくり食べて、駅に向かい電車に乗ると、いつもと違う車窓の流れに時間を忘れて見とれていた。
遠くに見える山が走り去る田園風景を見下ろしているかのように聳えているのを見ていると、空気が流れていないように感じるから不思議だ。しばらく乗っていると、寂れた看板が今にも落ちそうになっている駅に到着した。目指している野分村である。
看板には、温泉宿の宣伝が書かれているが、いつ書かれたものなのか、至るところが錆び付いている。山を背景に佇んでいる温泉宿のイラストが描かれているが、こう錆び付いていては、どんなところか想像もつかない。
――そういえば同僚も看板のことは話していたな――
「看板が落ちているからって寂れているわけじゃないよ。行ってみないと分からないものだよ」
と笑いながら話していた。
――きっと途中下車する予定でなくとも、途中で降りていたような気がする――
と感じたのは落ちている看板の後ろに描かれている山が気になったからだ。
光山は、海よりも山が好きである。
夏が苦手で、特に海の潮風がベッタリ肌に絡みつくのは勘弁してほしい。貧血気味で暑さのためによく立ちくらみを起こしていた小学生時代から、海はトラウマになっていた。
それに比べて、青々とした木々に包まれた山の美しさにはいつも感動していた。秋の遠足などで登山があると嬉しかったものだ。山に近づいていく時に見上げる山頂、山の上から見る下界の風景。
――先ほどまで自分がいた場所がこれほど遠く見えるものか――
と、山頂からの風景を感じる時間が好きだったのだ。
中学時代から絵を描くのが好きだったので、何度か山の絵を描いたことがある。
ある程度の距離のところから見る山の風景は美しいのだが、その微妙な距離がなかなか難しい。何度も距離を測りながら見上げる山は、日の光の角度によってもさまざまな顔を見せてくれる。それが嬉しかった。
コンクールに出品したこともあり、真剣絵描きを志そうかと考えたこともあった。
それまでは、
「なかなかセンスのいい絵を描くじゃないか」
と部長先生に言われて、おだてに弱い光山はそのまま美術部に入部した。
美術部で絵を描くごとに先生からセンスがいいといわれ、その気になってコンクールに出品して、入賞したからたまらない。
先生からは最高の賛美を与えられ、まわりからは祝福を受けた。
「おめでとう」
という言葉を何度聞いたことか。耳にタコができるほどだ。
「やっぱり、君にはセンスがあるんだろうな」
という先生の言葉は光山を有頂天にしてしまった。
――このままもっとうまくなってプロの絵描きになりたい――
という野心が芽生えても仕方がないだろう。