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短編集36

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 自分がこの部屋に普段いる時、それは表で見せる自分とはまったく違うことには気付いていた。しかし、男性と一緒にいる時だけは、そんな自分の本性、つまり自信過剰な自分が一人で篭っている姿だけは見せたくないと感じているからだろうか、その思いが強ければ強いほど、妖艶な雰囲気に変えてしまっているようだ。
 そのことに気付かせてくれた男性が一人いた。名前を秀則というが、彼はこの部屋を訪れた男性の中で唯一今でも仲良くしている男性だ。
 彼はこの部屋で千恵子を求めたりしてこなかった。いい雰囲気になりかかっていたのだが、自分から唇を重ねようとはしてこなかった。
「また来るね」
 と言って帰ったのは、まだその日のうちだった。時計を見ればまだ午後十一時を少し回ったところ、数時間はいたはずなのに、ハト時計の音に驚かされることもなかった。
――どうしてなのかしら――
 今度はまったく正反対の疑問である。今まではハト時計の音に驚いて帰っていった人たちが二度とここを訪れることもなく、しかも千恵子に別れを告げることもなく、まるで最初から知らなかったかのような態度を取ってくる。しかし、秀則だけは違った。
「まるでずっと前から知り合いだったような気がするね」
「ええ、そうね。まったくあなたといれば時間を感じないわ。暖かさに包まれた素敵な空間がそこにはあるだけって気がするの」
 まさしく本音である。
 どうして秀則は千恵子に対して男性の欲求をぶつけてこようとしないのだろう。千恵子も他の男性のぶつけてくる欲求に身体が反応していた。自分の中の女が顔を出し、抑えることができなくなる。
 もっとも抑えようなどとは、考えることもない。
――本能の赴くまま――
 この部屋ではそんな気持ちにさせられる。
――もしハト時計が鳴らなかったら――
 そのままお互いの欲求をぶつけあっていたに違いない。重たい空気の中で湿気はさらに増し、お互いの汗の酸っぱい匂いがさらに部屋を重たくするだろう。
 そんな時間を感じてみたいと思う反面、自分の中で弾けた後に訪れる気だるさや憔悴感にその場の雰囲気の中で堪えられるだろうか。それも一つの不安でもある。
 それを考え始めたのも秀則という男性が現れてからのことだった。
 もし秀則が自分の前に現れなければ、きっと同じことの繰り返しをしていたに違いない。今、この部屋を訪れる男性は秀則一人、しかし、この部屋で身体はおろか、唇を求めてくるようなことはなかった。
「この部屋の雰囲気は独特だね」
 部屋を見渡しながら最初に来た時の一言だった。その時にハト時計の存在には気付いていなかったのかも知れない。彼にハト時計が見えていたかどうかの疑問は、雰囲気が独特だといった言葉で判断できる。何となく部屋に何か異様なものを感じたのだろう。
 最初に感じた雰囲気を抱いたまま、ずっと部屋に来ているに違いない。
 秀則という男性にオトコを感じない。男らしさがないわけではないのだが、妖艶な自分が出る幕がないのだ。
 よく見ると色白で、女性っぽさを感じさせる。まるで歌舞伎の女形のような雰囲気を感じさせ、女性から見て男の人を綺麗だと感じることに複雑さを感じていた。
 秀則の瞳を見ていると吸い寄せられそうな錯覚に陥ることがあった。だが瞳の奥を覗き込もうとすると、まるで霧が掛かったように見えてこない。瞳の奥に透き通った部分がまったく見られないのだ。
 秀則といるとまるで魔法に掛かったかのようである。唇を重ねると甘い味を覚え、自分が男性になったかのような錯覚を感じていた。
 白ヘビのような滑らかさを感じる。白ヘビというと千恵子の田舎では神様の化身のように言われていて、捕らえてはいけないと言われていた。実際に相手から攻撃をしてこないヘビで、その雰囲気には気高さを感じるほどだと言われている。
 千恵子は一度も見たことはないが、夢に何度か出てきて、まるでおとぎ話のように、綺麗な女性に変身し、男性に近づく夢だった。
 相手の男性は、もちろん女がヘビの化身であるなど知らない。知っているのは千恵子だけで、しかも相手の男性が自分の好きになった人だからたまらない。
 いくら男性に話をしても聞き入れてくれないし、女の妖艶な雰囲気に妖術に掛かっていく好きな男性を見続けなければいけない辛さをじっと感じていた。
 夢の世界での白ヘビの化身、夢の終わりになると女の顔が微妙に変わってくる。
――どこかで見たような顔だ――
 すぐには思い出せないでいた。
 当たり前のことである。一番近くにいてその人の顔がピンと来ない。そんな人は他ならぬ自分ではないだろうか。次第に変わってくる女の顔を見ているたびに、かなしばりに遭っていく自分をどうすることもできない。
 夢から覚めると女の顔を忘れてしまっている。夢こそが白ヘビの与える魔術のようだ。
 結局田舎に住んでいる間、白ヘビを見たことはない。
「本当にいるのか? 白ヘビなんて」
 と茶化す友達もいたが、実際に見たことがないのだから、疑うのも当然である。それは千恵子だけではない、他の人も同じ気持ちでいるかも知れない。
――もし秀則が私を抱けば、私は白ヘビに戻ってしまうかも知れない――
 と馬鹿げたことを考えたりする。それとも秀則が千恵子を抱かないのは、彼女に白ヘビを見ているからだろうか?
 この部屋に魔法が掛かっているとすれば、ハト時計が影響しているに違いない。魔法というべきかどうか分からないが、千恵子にはそう思えて仕方がない。
 だが、その魔法に掛かっているのは誰だろう? 他ならぬ千恵子ではないだろうか。昔から自己暗示に掛かりやすい方だった。だからこそ、自信過剰になるのだ。
 自己暗示に掛かりやすいことは自分でも分かっているつもりだ。いつも自分が中心で、自分が分からないのに、他人が分かるはずがないと思っている千恵子だった。
 そんな千恵子の気持ちを、
――少し思い上がっているかな――
 と謙虚にさせるのは、秀則という男性の器の大きさだろうか。彼に見つめられると、自分が小さく感じられる。だが、決して卑屈になるわけではないところが、見つめられて吸い込まれそうに思うところかも知れない。
「君は今のままでいいのさ」
 自信過剰なところを戒めることもなく、千恵子の性格すべてを包み込んでくれそうな気持ちが、この一言には含まれていた。謙虚なのか、本当の自分を分かっていないのか、
「どうして? 私は結構自信過剰なのよ」
 というと、
「人には二種類いるのさ。自分に自信が持てる人と持てない人。いくら実力があっても、自分に自信が持てないために、実力の半分も出せない人だっているだろう? でも逆に自信を持ってやっていると、実力以上の結果を出せる人もいる。僕は自信過剰なくらいの人の方が可能性を感じられるから好きなんだ」
 最後の「好きなんだ」というセリフに痺れを感じた。今まで男性に、
「綺麗だよ」
「かわいいよ」
 などと、顔や肉体を褒められたことはあったが、性格的なことを褒められたことはなかった。
 性格を褒められると、今まで言われてきた褒め言葉が急に軽いものにさえ思えてくる。
――身体目的だったに違いないんだわ――
 としか思えないからだ。
作品名:短編集36 作家名:森本晃次