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短編集36

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 そんな父を見ていると、日高氏は拍子抜けした感じだった。表情は暖かくもなく冷たくもない。横顔を見ていると、池に行った時、トンネルで見た青白い顔を思い出してしまうが、それも一瞬である。その一瞬に、池のほとりを思い出した。
――もっと思い出していたい――
 と思ったのも束の間、シャボン玉のように消えてしまった。
――もう、思い出すこともないだろう――
 訳もない確信めいたものを感じた。
 父が平凡な人間に変わってしまってからすぐのことだった。母の顔が青ざめているのを見たことがある。それは暗い部屋で仏壇を拝んでいる時のことだった。
 日高氏の家の居間には、仏壇があり、母が時々お線香を上げているのを見たことがある。日高氏自身はあまり仏壇に手を合わせるようなことをしない信心などない方だが、たまに手を合わせている母を見て、心の中で手を合わせている自分に気付く。まぁ、高校生の男の子が何もないのに、仏壇に手を合わせている姿というのも想像しにくいものだろう。
 手を合わせて拝んでいる母の向こう側に障子が張ってあり、最初は真っ暗だった。雨戸が閉まっているに違いない。普段はそのまますぐにその場から離れるのだが、その日はなぜかそのまま立ち竦んでしまった。
――おや?
 じっと見ていると目が慣れてくるものだが、ハッキリと分かっては来なかった。
――おや? 顔が青ざめて見えるな――
 と思ったのも束の間、気付いた時には障子がオレンジ色に染まっていた。最初は火事かと思ったほどの明るさで、母の表情がまったく違う人になっていくようでビックリさせられた。
 思わず、父と一緒に行った池のまわりにある森の緑を思い出した。母の顔の青ざめた色はまさしくその時の緑色のようだった。
 だが、同じ青ざめた顔だが、父の青ざめた顔とはまた違ったものだった。仏壇をじっと見つめていて、決して虚空を見ているわけではない。ボンヤリしているわけではないところから、日高氏には安心感があった。
 何の根拠もない安心感である。
――母は父のように自殺をすることはないだろう――
 というくらいのもので、それでもその時は本当に胸を撫で下ろしたような気分になっていた。手を合わせているのが仏壇だというのも気になるが、その表情が虚空を見つめているのであれば、まるでご先祖様に呼ばれているかも知れないとも考えるが、視線はしっかりとしていた。死にゆく人の目ではない。
 それからしばらくは気になっていたが、一月、二月と過ぎていくうちに、自然と記憶の端から消えていった。母も何もなかったかのように元気だったが、時々誰にも内緒で出かけることが増えてきた。
 別に何も気にしていなかったのだが、ある日、知らない男性と歩いているのを目撃してしまった。
――見てはいけないものを見てしまった―― 
 と思い、しばらく誰にも内緒でいた。しかし人の秘密を握るということがどれほど重荷となることか、それまでまったく知らなかった。
――誰かに言いたい――
 それは誰もが持つ欲望の一つではないだろうか?
 そう考えると、母が自分に無言のプレッシャーを与えているような気がして、母を憎むようになっていた。まったくの逆恨みであることは分かっていたが、なぜか、ムラムラしたものが気持ちの中にあり、耐えられないでいるのだ。
 母が誰か知らない人と不倫をしているのは、複雑な気分だった。気持ちの奥のどこかに安心感があるからで、もしその人が現われなければ、母は間違いなく自殺をしていたように感じるからだ。
――思いとどまらせてくれた人、感謝こそすれ、憎んではいけないのだ――
 と心の中で思いながらも、何かムズムズしたものを感じる。
――母を取られた――
 というイメージがあるからだろう。母親のような人が自分の好みの女性であることに、初めて気付かされたような気がする。
 日高氏は。自分ではそう感じないが、人から見るともてる顔らしい。何もしなくとも女性の方から寄ってくる。
「お前が羨ましいよ。俺たちみたいにもてないと、ナンパでもしないと女性と知り合えないからな。積極的に行かない方がもてるなんて、何か理不尽だな」
 などという皮肉も言われた。悪気はないのだろうが、言われて初めて気付いたところもあった。
――そうか、やはり自分は冷静沈着なところが一番目立っているんだ――
 自分で感じている自分への思いと、他の人の目から見るのとでは、若干違っているものだと思っていた。だから、冷静沈着だと思っていても、本当にまわりがそれを一番の特徴だと見ているかどうか、分からなかったのだ。
 確かに冷静沈着な性格はもてるだろうが、それが自分に当てはまるかどうかも、ハッキリしない。
 表情もほとんど変わることがないだろう、冷静沈着に見えるということはそういうことかも知れない。
 父も母も自殺をしようとしたが、結局は生きている。母は自殺まで決行しなかったが、様子を見ていると次第にやつれていくのが見えていたように思う。いつ自殺をしてもおかしくないような表情の時にちょうど不倫相手が現われたのだろう。
――怪我の功名――
 という言葉が適切かどうか分からないが、まさしく寸前で助かったように思える。
 父も自殺未遂から後、回復して、もうあの時のことはほとんど覚えていないようだ。ショックを忘れてしまうことはよくあることだが、本当に覚えていないように思えてならない。本人の中にまったく自覚がないのだ。
 自殺したくなる菌のようなものがあると思っているが、それは伝染するのかも知れない。父から母に……。しかし、冷静沈着な自分にはまだ、その兆候は現われていない。
――怖いかだって? 怖くないわけはない――
 だが、なぜか気分は他人事なのだ。根拠のないことに恐れおののくようなことはない。きっと何かの兆候が現われれば、人が変わったように臆病になるに違いないと思っている。
 自分のことを臆病で仕方がないと思う時と、まるで他人事にように思う時があるが、きっと本当は臆病なのだろう。怖さがある程度までくると、他人事のように思えてくるものらしいが、意識していないだけで、臆病風に吹かれているのだ。だから人によって、日高氏を臆病だと思っている人と、冷静沈着で怖いなどという言葉とは無縁だと思っている人と二通りの人が存在しているに違いない。
 エレベーターの中と、トンネルの中、そして橋の上から見た下の光景。そのすべては、いわゆる人間の三大恐怖症に当たるのではないだろうか。
 閉所恐怖症、暗所恐怖症、高所恐怖症。自分が想像する一歩踏み出した先が分からない夢とはこの中の暗所恐怖症に当たる。
 すべての恐怖も極限になると、まるで他人事のように思えてくる。心が病んでいるのかも知れない。そんな時に襲ってくるのが自殺をしたくなる菌だとするならば、やはり伝染しても仕方のないものだろう。
 確かに後追い自殺などは、自分の大切な人が亡くなってやる気を失くしたからするのだろうが、その考えに間違いはない。しかしそこで「他人事」と思うことで、自殺を促す菌が入り込みやすくなって、自分の本当の意志に逆らうように死んでしまう人がほとんどのように思えてきた。
作品名:短編集36 作家名:森本晃次