短編集36
見ていた先は、確か自分の影だった。影を追いかけるように歩きながら、気がつけば帰宅していたのではなかったか。気持ちが弘子に行っていたのは事実だが、弘子に奪われていたとは思えない。
影を追いかけているうちに誰かに見つめられているのに気がついていた。しかし、視線をそちらに逸らすのが怖かった。自分の影を見失いそうになるからだ。
――影を見失ったらおしまいだ――
何を根拠にそう感じたのか分からない。だが、ネオンサインの中で自分の足元からまるでタコの足のように放射状になって広がる自分の影の一つを追いかけるだけだった。
だが、その時にもう一人自分を見つめる人物に気付いてはいなかった。
最初の一人は今の自分だったのかも知れない。怖い視線というよりも驚きの視線を感じたからだ。しかしもう一つの視線は間違いなく恐怖を感じさせるものだった。危害を加えるようなそんな怖さではない。何もしないし、決して距離を縮めようとしないが、離れることもなく、ずっとついてくる気配だった。
――まるで影のようなやつだ――
自分が影を見つめて歩いている。そんな自分を影のように追いかけてくるやつがいる。これほどおかしな気分のものはない。
追いかけられている自分を思い出すと、影を見つめている自分の後ろからつけてくる人を探していた。
――ピエロじゃないか――
そこにいるのは間違いなくピエロだ。滑稽な格好をしながらまわりを笑わせようとしながら、決して目の前の自分から離れようとしない。もちろん追いかけてくるピエロを見て笑っている人は誰もいない。それどころか誰も気にする者がいないではないか。
――きっと俺にしか見えないのかも知れない――
気配だけを感じている目の前の自分、そして、その自分を見つめる夢を見ている自分、過去の記憶があるから見えているだけなのかも知れない。ピエロの存在なんてそんなものではないだろうか。目立っているつもりでも、特定の人物にしか見えない存在。それがピエロであり、各々自分の中にピエロのような存在の人が意識しないまでもいるのかも知れない。時としてそれが自分の影だったり、歩いていて後ろから感じる視線だったりするのだろう。
この村は皆無口だ。
――ピエロのような街――
と感じるのも無理のないことだ。
夢から覚めて掻いた汗が気持ち悪いため、朝風呂に入ることにした。朝といってもまだ朝日も昇る前、時間的には新聞配達の人くらいしか街を歩いている人もいないだろう。
露天風呂は早朝でも入れるようになっていた。明かりは暗く、灯篭をかたどった照明が行灯のように揺れて光って見えるのも旅館側の演習だろうか。
汗を掻いているのは怖い夢を見たからではない。ピエロという存在を卑屈に見てきたはずだったはずなのに、そんな自分をピエロに見立てているところが自分で許せないのだろう。
――自分を卑屈に感じる時が今までにも時々あったな――
卑屈に感じた時が鬱状態への入り口だった。だが、どうしてそこまで自分を卑屈に思えるのか分からない。
温泉の湯気が灯篭の明かりで霞が掛かったように見える。満天の空に掛かった霞は実に綺麗で、眠気を覚ますのも目的だったはずなのに、却って睡魔を誘いそうだった。
浮かび上がった影がこちらを見つめているようで気持ち悪い。何しろ白い湯気の幕の向こうは満天の星空とはいえ、湯気を飲み込んでしまうに十分な真っ黒い空でもあるのだ。
影が走り去ったように思えた。真っ白い湯気のシルエットに映し出された走り去った影、今までにこれほど大きな人影を見た記憶がなく、目を逸らしたいくらいだったが、かなしばりにあったかのように、走り去った方向から目が離せなかった。
影が走り去った方角の向こう側に見えるのは祠だった。湯から上がって浴衣に着替え歩いていくと、目の前に見える祠が最初に感じたよりも大きく見えた。
――それだけ影の大きさに果てしなさを感じていたのだろう――
祠の前に立った頃には朝日は少しの顔を出しかけていて、朝露で濡れているのが見て取れる。
祠の扉は半分開いていた。中を覗くと何やら白いものが見えたような気がした。仁王像のようなものを想像していたので少し意外な気がした。
――おや――
そこに立っているのはピエロだった。実際に我々がいつも目にする道化師とは少し違い、表情は険しいもので、くまどりも人を楽しませるというよりも怖がらせるものだった。
さすがに落ち武者の村と言われるだけのことはある。ピエロのまわりを取り囲むように村人がまわりを固めている。ピエロを守っているのか、それとも攻撃しているのかは分からない。だが、ピエロが孤立無援だということだけは分かった。
――やはりこの村はピエロの村なんだ。何しろ、無口な雰囲気は時間を感じさせない――
と、今さらながらに感じたが、夢を見てから温泉に入り、ここでピエロを見たという事実、そこには何かの作為が感じらるのは気のせいではないだろう。
――俺はこの村に来るべくして来たんだ――
と思えてならない。自分の先祖がこの村にゆかりがあるのかも知れないと感じたが、それは誰にも分からない。しかし、ピエロのような性格の人間がここに引き寄せられるようにやってくることがあるとすれば、誰かに聞いてやってくるのだろう。この村から自分の世界に帰って、今度はピエロのような人間を探しているであろう自分が目に浮かぶ。そしてそれは無意識のことなのだ。
この村にどれだけ滞在していたのだろう。日数的には数日間、しかし、自分の中で、
――現実の世界に帰りたい――
と思うまでいたことは間違いない。
帰りに見た宿が小さく感じる。まるですべてが夢であったかのように……。そして、駅に着くと、傾いていたはずの看板が消えていることに気付いたが、後ろを振り返る気はしなかった。
――ピエロ、それは自分の気持ちを覆い隠すとするもう一人の自分――
記憶力の低下を気にしていた光山だが、ここの時間を味わうために記憶力が低下していたのかも知れない。記憶を低下させようというもう一人の自分がいるのだ。
――ピエロの村。ここのことは自分の胸だけに閉まっておこう――
と、考えていた。そしてそこは光山の心の中だけに、永遠に残ることになるだろうが、人に話そうとすればたちどころに記憶からも消えてしまうだろう。きっとそんな紙一重の世界だったに違いない……。
( 完 )