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短編集36

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 光山にとっての親友とは、お互いのプライベートを侵さない距離を保てる仲だと思っている。部屋に遊びに行ったり泊まりこむことがあっても、相手が大切にしているプライベートには踏み込むことはない。それが秘訣である。
 ここが似合う人物というのがあるのかも知れない。もしそれが自分であるならば、ある意味光栄に感じていた光山だった。
 じいさんとの話が終わると、宿に戻って風呂に入ることにした。宿の裏から通路が延びていて、見下ろすところに白い湯気が浮かび上がっている露天風呂だった。
 やはり温泉の醍醐味は露天風呂である。
 旅行先で初めて入った露天風呂を思い出していた。湯気で水面から立ち込めているのをずっと見ていて、気がつけばそれだけで身体が火照ってしまうほどの時間が経っていた。夜の露天風呂は最高である。
 その日も夜の帳はすでに下りていて、最初に入った露天風呂を思い出させる湯気が立ち込めている。水面から沸き立つ湯気は真っ黒い幕を張ったような空へと舞い上がっていく。
――それにしても何と綺麗な夜空なんだ――
 満天の空とはまさしくこのこと、立体感溢れる大パノラマが目の前に展開されている。沸き立つ湯気も、向こうに見える小さな星の煌きも、手を伸ばせば掴み取れるのではないかと思えるほどの煌めきを示していた。
――ああ、来てよかったな――
 命の洗濯をしているようだ。今まで命の洗濯という言葉、どこまで本当にそんな気分になれるかと思っていたが、実際に自分が感じるとすれば思い切り普段の環境を変えるしかないと思っていたが、まさしくそうだった。
 しかし、光山はこういう時でもあまりポジティブに考えられない性格である。
――俺って結構損な性格をしているんだな――
 なぜ今さら、こんな素晴らしい環境で、自分の嫌なところの性格に思いを馳せなければならないのだ。それこそ損な性格ではないだろうか。
――まるでピエロだな――
 ことの他、自分が強情な性格であることは分かっている。人に合わせなければならないことでも、自分の信念と少しでも違えば、従うことはない。しかも相手に分かるような露骨さを見せてしまうところがある。
 また、自分にとって興味のないことであれば、それがたとえ仕事であっても手を抜いてしまうことも多い。
 営業がノルマ達成すれば、達成してから上の余った部分を翌月に回したりするが、それに似ているようにも思う。あまりできるところを見せて、ノルマを上げられればそれだけさらに仕事をしなければならなくなるではないか。
「それで評価が上がるからいいじゃないか。出世だってできるぞ」
 という声が聞こえてきそうだが、実際は出世したいという気持ちなど今は昔、出世がなんになるというのだ。出世して責任だけが大きくなって、それに見合う見返りがあるというのだろうか。
 それならば、その時間を自分のために使いたい。時間だけではない、精神的にも時間以上に仕事にウエイトを掛けている。それが自分で許せなかったりするのだ。
 しかし、おだてに弱いのも光山の性格、特に第一線の現場で頑張っている頃は、まず仕事が第一、三度の飯を食うよりも仕事をしている時があったくらいである。自分の仕事であろうがなかろうが、まわりが少しでも喜んでくれそうな時は、自分から動いたものだ。今から思えばきっと、
「あいつは使い勝手のあるやつだ。せいぜいおだてて利用してやれ」
 と思われていたように思えてならない。
 分かっていたつもりである。そしてそれでもよかったのは毎日が充実していたからだ。自分の行動でまわりが助かり、お世辞であっても感謝の言葉を掛けられれば嬉しいではないか。
――需要と供給がピッタリ嵌まっていただけだ――
 と考える。きっとそれだけ若かったのだろう。
 今から思えばまるでピエロではないか。人を喜ばせることだけを本望とする。自分は目立っているが決して表に出ようとはしない。それがピエロ、道化師というものだ。
 ピエロが悪いと言うのではない。しかし、
――ピエロってどんな心境なのだろうか――
 人を驚かせたり喜ばせることだけに生きる人、もしそんな人がいたらどうなのだろう。施された化粧を一生取ることもなく、素顔を知られないままピエロとしての人生を全うした人というのがいるのだろうか。
 昔映画スターで、本当の顔よりも喜劇俳優としての顔がメジャーに知れ渡っている人がいたが、その人は自分の信念をしっかりと持っていて、映画の中でしっかりと自己主張をしている。まさしく喜劇俳優としての彼が、本当の彼だったのだ。
 ピエロも同じようなものかも知れない。本当の性格が見えていないようで、実際に見えている性格そのものが個性の強いその人の性格なのだ。あまりにも奇抜で、それでいて分かりやすいために性格を押し殺しているように見えるだけかも知れない。
 その夜、不思議な夢を見た。ピエロになった自分を思い浮かべたからだろうか。夢の中でも自分はピエロである。
 何の違和感もない。自分がピエロであることに何の疑問も抱くことなく、道化を演じている。まわりにいる人間が大きな声を上げて笑っているのが見える。
――笑われて当然――
 それがピエロなのだ。
 夜の街に繰り出してプラカードを肩から上に突き上げて、歩いている人のまわりを回って気を引くような態度をとる。
――きっと自分だったら、煩わしくて突き飛ばすかも知れないな――
 などと思いながら、まわりの人の誰からも反応がないのはいいことなのか、悪いことなのか、これが本当のピエロである。
 目立っているつもりでも、まわりはそれほど気にしていないものなのだ。却って光山が意識過剰になっているくらいで、他の人は意外と無神経なのかも知れない。夢を見ることで今さらながらに感じさせられた。
 プラカードを肩から抱えて、しょんぼりと裏通りに入る。暗く狭い裏通りから表通りを見るとこれほど賑やかなものはないだろう。だが、まわりの賑やかさとは裏腹に歩いている人の無感情な表情は一体どうしたことだ。じっと見つめていた。
――おや?
 通りの真ん中で顔を半分下げながら、虚ろな表情で歩いている青年を見かけた。よく見るとそれは他ならぬ大学時代の自分ではないか。何か思いつめたような表情に見えなくもないが、よく見ていると今目の前を歩いている自分の心境が分かってきたような気がした。
 同じような表情をしていたように思える時を思い出していた。まだあどけなさの残る顔に大人の雰囲気が見え隠れしているその表情は、弘子の絵が完成し、弘子を抱いたあの日にしていた表情に思える。
 弘子を抱いたことに対しての罪悪感があろうはずはない。初体験だったわけでもないし、第一雰囲気がお互いに盛り上がっていたではないか。にもかかわらず弘子を抱いたことに対して罪悪感に近いものが自分の中で燻っていたのを今でも覚えている。
――自分の中で何かが変わった瞬間だ――
 と感じた時だった。まだ身体に纏わりつくような繊細な肌触りが残っていて、温もりをそのまま感じていたはずだった。だが、心境としては、心ここにあらずで、虚空を見つめていたことだけは覚えている。
作品名:短編集36 作家名:森本晃次