永遠の保障
彼は、ゆあの隣に座り、ゆあの描いている絵を見るというよりも、ゆあが描いている絵の元になっている光景を一緒に見つめた。
「なるほど、ここなら何かを描いてみたいと思えるスポットだね」
「ええ、昔からこの光景は好きだったんですよ」
というと、彼は別の話を始めた。
「目の前に見えている光景というのは、角度によってまったく違って見えるものだって知ってた?」
「それはどういう意味ですか?」
「君は天橋立って知っているかい?」
急に話が飛んでしまった。
「ええ、日本三景の一つだっていうことくらいは知っているわ」
「行ったことはあるかい?」
「いいえ、あなたは?」
「僕はあるよ。そこでね、天橋立を見るのに、高台のようなところがあって、そこでは面白い見方をするのが有名なんだ」
「どんな見方なの?」
「後ろ向きに立って、身体を前に倒して、股座から覗くんだ」
「へえ、どんな感じなの?」
「場所にもよるんだけど、海が空に見えたり、空に昇って行く竜の姿に見えたりするらしいんだ。僕も覗いてみた時、素直にそう感じたんだけどね」
「すごいわね」
「僕は、ちょうどその時、絵を描きたいと思いながら、なかなか描けなかったんだけど、天橋立で股のぞきをした時、急に描けるようになったんだ」
「何がきっかけだったの?」
「僕は絵を描けない理由が分からなかったんだ。最初からまったく描けなかったんだけど、その理由というのが、最初にどこから筆を落としていいのかが分からなかったんだよね。でも、天橋立で股のぞきをした時、海が空に見えたり、竜が昇って行く姿を見た時、普段見ている光景が、陸がほとんどだって気が付いたんだ。つまりは自分が暮らしている世界が一番広く見えるという錯覚なんだけど、逆さになって見ると、空が一番大きいんだよ。よくよく考えてみると、空が一番大きいのは当たり前のこと。実際に見えている光景が思い込みだと思うことで、なんとなくだけど、絵が描けるような気がしてきたんだよね」
「じゃあ、どうして絵を描くのをやめてしまったの?」
「絵を描けるようになったのが、ゴールじゃないんだよ。実はそこがスタートラインだってことに、なかなか気付かずにね。そのため、すぐに壁にぶつかっては、先に進めなくなる。次第に億劫になってきたんだな」
「分かる気がします。私は今やっと、あなたのいうスタートラインに立てたという気がしているんですが、なるべく勇み足にはならないようにしようとは思っているんですよ。絵を描けるようになっても、絵にだけ集中するわけではなく、他のことにも興味を持ちたいと思っているんです」
それはいいことだ。
彼の名前は清田政治というが、彼は絵を描くのを休止して、音楽の道を志している。絵を描くことに少し疑問を感じていた頃、中学時代の友達に出会って、音楽を勧められたという。
音楽は中学の時に少しギターをしていたが、ちょうど友達のバンドでギターがいないので誰か探していたというのだ。
「ちょうどよかった。俺たちと一緒にやろう」
と誘われ、すぐに了解したという。
「俺が人から請われたことなんて、今までに一度もなかったんだよ。相手に望まれてやることの素晴らしさを、この時、初めて知ったんだよ」
ゆあは、この時の清田の顔を新鮮に感じ、いつの間にか好きになってしまっていた。
絵を描くのは相変わらずだったが、彼のバンドメンバーとも仲良くなっていった。しかし、彼の仲間の一人にロクでもないやつがいて、ゆあを誘惑してきた。ゆあが断ると、逆切れしたのか、その男は力に任せて、ゆあを蹂躙。ゆあは、またしても精神を壊してしまった。
――私って、どうしていつもこんなことになるのかしら?
と考えていた。
ダーツバーに通うようになったのは、それから少しして、これまでの経験から、オトコは怖いというイメージとは別に、自分になら、少々の男は手玉にとれるというくらいの思いも持っていた。
普段は、河原で絵を描いていて、夜になると、ダーツバーで遊んでいる。まったくしhがった性格がゆあの中に存在し、しばらくそんな毎日に感覚もマヒしていったのだ。
「ダーツと絵を描くのって、似たようなものなのかも知れないわ」
というと、
「何だい? どういうことだい?」
と、軽薄な男連中は、ゆあの言葉の意味を真剣に考えてはいないようだった。
「絵を描くことは最初、減算方式に思えたんだけど、実際には加算方式なの。それって確率という意味ではどんどん減って行っているのよ。それはギャンブルにも言えることで、私のようにダーツが下手な人には、的に当たる確率なんて、どんどん上がっていくように思うの。実際には減算方式なのに、加算方式のように感じる。絵とは逆なんだけど、ニアミスという意味で似ているような気がするの」
というと、
「面白いことをいうよな。俺は高校を中退したんだが、中退するまでは野球をやっていたんだ。中学時代はそれなりに有名校で、四番を打っていたのさ。高校もいくつか誘いが来て、その中の一つの高校に野球で入学したんだけど、まわりについていけなくて、結局切り捨てられる結果になって、中退さ。いわゆる転落人生なんだけどな」
ゆあは、今までにそんな人を嫌というほど見てきているつもりだったが、彼は少し違った感じがした。それは、彼にはまだ野球への未練があり、普段はアルバイトをしながら生活する傍ら、少年野球でコーチや審判のアルバイトをして、何とか野球の世界に踏みとどまっているようだ。
――普通なら、ボールを見るのも嫌になるような気がするのに――
と感じたが、ゆあには、その気持ちが、どこか分かる気がしていた。
その理由の一つに、彼が清田とどこか似ているところがあったからだ。
清田は、ゆあが仲間に蹂躙されたという事実を知った時、ショックからか姿を消した。最初は、
――私が一番いてほしい時に姿を消すなんて――
と思ったが、後になって冷静になると、彼が姿を消してくれたおかげで、立ち直ることができたような気がした。
立ち直るというのがどういうことなのか分からない。ダーツバーで遊んでいることが立ち直ったことになるとは実際に思っていないが、これ以上自分が壊れるのを抑えることができただけ、立ち直ったような気がしてもいいのではないかとゆあは思っていた。そんな時に知り合ったのが、この男性だったのだ。
彼は話を続けた。
「僕は、時々、ロシアンルーレットを思い浮かべることがあるんだ」
「ロシアンルーレット?」
「ああ、拳銃のリールが六つあって、その中の一つに玉を込める。そして、リールを回転させシャッフルさせる。そして、その状態で、一人ずつ頭に拳銃を向けて、一回引き金を引く……」
聞いたことはあったが、話を聞いているだけで、ゾッとしてくる思いを感じた。
「どうしてそんなおっかないことを思い浮かべるの?」
「どうしてなんだろうね? 夢で見ていることが多いような気がするんだけど、夢というのは、しょせん覚めるにしたがって忘れていくものなんだよね。でね、その夢を見ている時、僕はもう一人の自分を感じることができるんだ」
「それって、私にもあるかも知れないわ」