永遠の保障
ゆあはまだ鬱状態を経験したことがなかったので、よくは分からなかったが、その後にやってきた鬱状態では、完全に今まで見ていた光景が、まったく違うものに変わってしまうことを経験した。
たとえば、信号機の色である。
昼と夜とで信号機の見え方が違うのは、子供の頃から感じていた。
昼に見る時の青信号は、緑色に感じられたが、夜に見ると、真っ青だった。この感覚だけは覚えていたので、鬱状態に陥った時、
――昼でも夜のようだわ――
と感じた。
最初はそれが信号の色から感じたことだとはすぐには分からなかったが、分かってくるようになると、それが鬱状態であると初めて感じた。
――何なの? この感覚は――
と、鬱状態に陥ったということを自覚できていなかった時期が、最初にはあった。
先生もその時、ゆあが陥った鬱状態のように、同じものを見ていても、ゆあとは違って見えていたのかも知れない。
ゆあは、最近になってそのことに気付き始めた。
最初はショックでそんなことを感じることもなかったが、
「時間が解決してくれる」
とよく言われるが、ショックなことを感じたことのなかったそれまでのゆあには、完全に他人事だった。
先生の家に上げてもらうことも、それまでには何度かあった。先生はコーポのようなところでひとり暮らしをしていて、家事も自分でしていたようだ。ゆあが先生のところに来る時も、いつも夕飯の準備をしようとしているところで、
「じゃあ、私が作ってあげるわ」
と、用意されたものから調理していった。
――先生から受け継いだバトンなんだわ――
と思うと嬉しくなり、さらに炊事を自分でやっている普段の先生を思い浮かべて、にこにこしてしまっている自分を感じると、ゆあは恥ずかしさから顔が真っ赤になるのを感じた。
「先生、もうすぐだからね」
と言って、鼻歌を口ずさみながら、調理に勤しんだ。
そんなゆあの後ろ姿に、先生はどんな気分だったのだろうか? 制服にエプロン姿、オトコの人にとって、これほどそそられる姿がないのではないかということに、その時のゆあはきづかなかった。
先生は、最初こそ、目のやり場に困っていたようだったが、次第にその視線は熱いものになっていた。
――先生に見られている――
という思いがあったのは事実で、
――もっと見てほしい――
と思ったのも事実だった。
しかし、まさかそれが先生の男としての我慢の限界まで追いつめてしまうことになるなど、思ってもいなかった。それだけ甘かったというべきか、オトコというものを知らなかったことが生んだ悲劇なのだが、ゆあには、自分がコウモリであることに気付かなかった。
コウモリというと、
「獣に出会っては鳥だといい、鳥に出会っては獣だ」
という。
そうやって、自分の身を守ってきたのだが、そのたとえは、あまりいい意味で使われることはない。
まるで日和見的なところがあるという意味に使われることもあるだろうし、どちらの仲間にもなることができず、
「孤独な動物だ」
というニュアンスで取られることもある。
ゆあはコウモリのたとえをそれまでに聞いたことがあった。まさか自分がコウモリのようになってしまうなど想像もしていなかったので、
――自分に起こったことが他人事だったらいい――
と思いながら、コウモリを思い浮かべていた自分は、本当に他人事のように感じていたに違いない。
「先生、おいしいもの作りますからね。待っていてくださいね」
と、ニッコリと笑って後ろを振り返った時、先生の顔がドキッとした表情になったことは感じた。
――もっと、私を感じてほしい――
と感じている自分を何とか押し殺そうと思う自分が本当はいたということをその時のゆあは感じていたのだろうか?
「ああ」
と、ドキッとした表情とは裏腹に、返事はハッキリとしない。そんな時が本当は危険なのだということを知らないゆあは、その時、自分の先生を見る目がどんな感じだったのか、分かるはずもなかった。
――私はまるでメルヘンの世界のお嬢様のようだわ――
少しでも現実とかけ離れた妄想をしている方が気が楽である。
しかもその妄想を、
――自分だけの世界のこと――
として考えていた。
だが、相手の男はどうだろう? これまであまりモテたことのない人であれば、女の子から優しくされればいくら教師だとはいえ、魔がさすということがある。そのことをその時のゆあはまったく感じていなかった。
――いや、感じていたのかも知れない――
鬱状態になりながら、自虐に走らなかったのは、きっと自分が先生のためにしていることが実を結ぶと思っていたからだろう。見返りを求めてはいけないはずなのに、気が付けば見返りを求めている。それは自分の中にある開き直りがそうさせたのかも知れない。
「先生……」
調理をしているゆあの後ろから先生が抱き着いてきた。
「杉山君……」
ゆあは、反射的にコンロのスイッチを切った。火事になることを恐れたのだろう。
「先生、痛いですよ」
というと、
「あ、ごめん。痛かった?」
先生はすぐに我に返ってしまったようだ。
ゆあはそんな先生にその時、物足りなさを感じた。自分が小悪魔になりたいという気持ちを持っていることにその時初めて気付いたのだ。
「大丈夫です。優しくしてください」
この言葉が、どういう意味を持つのか、その時のゆあは知らなかった。
「分かった。大丈夫」
――何が大丈夫だというのだろう?
ゆあは、そう思って、先生を振り返り、微笑んだ。
ここまでの行動や会話は、他人が見れば、
「女性の方から誘惑した」
とみられることだろう。
「優しくしてください」
という言葉が、暗黙の了解であるということを示しているからだ。
先生がそこで、
「いいんだね?」
と聞けば、ゆあも暗黙の了解であることを理解したことだろう。
しかし、その時のゆあはそこまで頭が回らなかった。だが、自分の中では先生と深い関係になってもいいという思いがあったのも事実だった。
ただ、その思いは一貫したものではなく、その時の流れに任せたものだった。先生はそれから本当に優しくなった。しかしその優しさは、オトコとしての本能がもたらす優しさであり、ゆあにとって大きな勘違いを生むものだった。
――これで先生は私のもの――
とゆあは感じた。
その時に先生は、相手が本当にゆあでなければいけなかったのかどうか、疑問だったに違いない。
――僕は本当にこの娘を好きなんだろうか?
と思ったに違いない。
その日、ゆあは先生に処女を捧げた。
「初めてだったんだね?」
と先生がいうと、ゆあは恥じらいの中で、
「ええ、先生、ありがとう」
というゆあのこの言葉を先生は、
――ありがとうということは、処女喪失の相手に僕を選んだだけで、本当に好きだなんて思っていなかったんじゃないか?
と思い、少し気が楽になった。