永遠の保障
明らかに不良少年と思えるような男に声を掛けられ、ゆあは眼光鋭く、その男を見上げた。不良少年と思しきその男は、一瞬ひるんだのを、ゆあは見逃さなかった。
「いいわよ」
と一言だけいうと、スックと立ち上がり、レジを済ませて、自分から先に店を出た。
そんな少女がいたなどと知る由もなかった彩香だったが、下田は彼女が出ていくのを気にしながら似ていたことに、まったく気付かなかった。
ゆあは、さっさと不良少年を振り切るかのように先に先にと進んでいる。少年の方もゆあの行動をとがめることもなく、暗黙の了解のようについていった。普通であれば、男性を押しのけて女性が先に行くというのは、男性のプライドを傷つけるようなもので、男性とすれば、少なからず面白くないと思うのだろうが、少年にはそんな素振りはほとんど感じられなかった。
表に出ると、そこからダーツバーまではさほど距離はなかった。ゆあは足早なので、五分もかからずに到着し、中に入ると、一瞬ムッとくるようなタバコの煙が蔓延していたのだ。
ゆあはタバコを吸うわけではない。タバコの臭いは本当に嫌いで、以前なら二十分と我慢できなかったはずなのに、慣れというのは恐ろしいもの。今ではずっと中にいてもそれほど嫌な気にはならなくなっていた。それはきっと我慢するという限界を超えたからなのかも知れない。ゆあは結構我慢することを今までに余儀なくされてきたこともあって、我慢に対して、感覚がマヒしているところがあった。
「今日も学生服なんだな」
店に入ると、カウンターの奥のマスターからそう言われた。
「こんにちは、マスター。ええ、これが私にとっての戦闘服のようなものなの」
と言っていた。
「まるで昔映画であった『セーラー服と機関銃』みたいだな」
マスターの年齢がいくつくらいなのか分からなかったが、少なくとも四十歳は超えているだろうと思っていた。
十八歳のゆあにとってみれば、四十歳の男性というのは、遠い存在に感じるに違いない。ただ、学校の先生や親は違った。いくら年齢が離れていて、遠い存在だと思ってみても、尊敬などありえなかった。そういう意味ではここのマスターに対しての尊敬の念は、ゆあにとって今までに感じたことのないものだった。
――これって本当に新鮮な気持ちだわ――
と思うのだった。
ゆあが、学校に行かなくなった理由は、先生によるセクハラが原因だった……と、言われている。
中学の頃というと、成長期であり、どちらかというと晩生だったゆあは、中学二年生になって、急に成長してきた。
胸は膨らんできて、体型もそれまでの幼児体型から、
――大人のオンナ――
という雰囲気になってきたのだ。
そんなゆあの中学二年生の時の担任は、まだ大学を出てから三年目くらいの人で、実はゆあの憧れの先生でもあった。
しかし、ちょうどその頃、先生は失恋したようで、ショックを表に出していた。そんな先生をゆあは気の毒に思い、
「先生、大丈夫ですか?」
と、気にかけていたのだ。
先生の家は知っていたので、時々差し入れを持って行っていた。先生も最初は失恋のショックで、他の女性に目もくれることはなかったが、次第に心が癒えてくるのを感じると、この思いが、
――この生徒は俺のことを好きなんだ――
という思い込みに発展していた。
この教師は、自分の喜怒哀楽を我慢することなく表に出していた。それが生徒と触れ合うためには一番いいと思っていたこともあって、気持ちを隠すことをしなかった。それがゆあの心を打つことになったのだが、悲劇はここから始まったと言ってもいい。
――先生を、私なら癒してあげられる――
という思い込みがゆあにはあった。
それまではまだ自分が子供だと思っていたのだが、急に身体の発達を感じると、精神的にも大人になったかのように感じていた。
先生は、そんなゆあの気持ちを知ってか知らず科、先生の方はゆあの気持ちよりも、身体に視線が行くようになっていた。
――あの時、彼女の気持ちをもっと見つめることができていれば――
と、先生は後になって感じたことだろう。
しかし、そんな思いはゆあには届かない。むしろ、自分が先生を癒すという思いが強かっただけに、相手が何を感じているのかというのは二の次だった。
これがゆあにとって致命的だったのかも知れない。
お互いに相手のことを思いながら、気持ちはすれ違っている。すれ違っているというよりも、最初から見ている方向が違っていて、それだけ見ている目的が違うのだ。
「杉山君は、どうして僕をそんなに気にしてくれるんだい?」
と、先生はゆあに言った。
「えっ、先生が落ち込んでいるのを感じたので、私にできることがあれば、できるだけしてあげたいと思ったんです」
と、ゆあとすれば、自分の癒してあげたいという気持ちを抑えて話したつもりだった。
この言葉はゆあをハッとさせた。
――私は先生のことが好きなのかしら?
それまでは、
――癒してあげたい――
とは思っていたが、好きだという感情ではないと思っていた。
もっとも、それまで誰かを好きになったという経験のないゆあは、先生を本当に好きなのかどうか自分でも分からなかった。
そのうちに、先生の視線に、それまでと違っている何かを感じた。それが、オトコとしての本性からの視線であるということに気付かなかったのだ。
――どうしたのかしら? 先生――
と思いながら、なるべくいやらしさを感じないようにしようと思っていたのだ。
しかし、その思いは違っていた。いや、違っていたというより、間違っていないのだが、認めたくないという思いだったのだ。
先生は失恋してからそろそろ三か月が経とうとしていた。普通なら立ち直ってもいい時期なのに、先生の中で立ち直るきっかけが見当たらない。
その理由は、ゆあがいたからだった。
自分の中で付き合っていた人への未練を断ち切りたいと思っているところに、教え子の女の子が優しくしてくれる。付き合っていた女性とは似ても似つかぬ雰囲気で、しかも、相手は自分の教え子だ。同じ次元で見てはいけないと思いながらも、その時の先生にはそんな感覚は皆無だった。
――何をどうしていいのか分からない――
そんな思いが交差した。
それはゆあにも言えることで、ゆあには、恋愛経験はおろか、まだこの間まで子供だったという意識が強かったのだ。
――私にとって先生って、ただの憧れなのかしら?
その頃になると、自分が先生を好きになりかかっていることに気付いた。
ただ、それは好きになったから感じたわけではなく、好きになりかかったことで気付いたことだったのだ。
好きになったのと、好きになりかかったのでは違う。好きになりかかった場合、それが憧れなのか、恋に憧れている自分に憧れているだけなのかということを、無意識に感じている場合がある。
しかし、好きになってしまうと、考え方は一変する。
目の前に見えていた光景が、まったく違うものに感じられるに等しい。悪い意味であれば、鬱状態になった時に感じる目の前の光景の変化に似ている。