永遠の保障
その瞬間、静寂だった時間があったということが遠い過去だったような気がしたが、間違いなくあった瞬間であり、それがどれほどの長さだったのか、彩香は気になっていた。
――結構長かったような気がするんだけどな――
と感じたが、遠い過去だと思っていることで彩香は自分の感覚がマヒしてきているのではないかと思っていた。
一回の表のビジターチームの攻撃は、別にチャンスがあるわけでもなく、三人がすべてアウトになることで終了した。いわゆる三者凡退である。
――こういう時、ラジオの解説では、無難な立ち上がりっていうんでしょうね――
と感じていた。
今日、野球観戦に来る前、テレビで試合を見たり、テレビのない時は、ラジオをつけて試合を聞いたりしていた。テレビを見ていることで、ラジオを聞いていても想像はつくので、ラジオを不便だとは思わなかった。
――ラジオの方が、想像力を豊かにしてくれる分、ドキドキできるので楽しいかも知れないわ――
と感じた。
相手チームの先発もエース級だったので、投手戦が予想されたが、一回を終わってみているだけで、
――この試合、本当にあまり点数が入らないのかも知れないわね――
と感じた。
根拠があるのかと聞かれると難しいが、しいて言えば、
「球場の雰囲気がそんな雰囲気だから」
としか言いようがないだろう。
エース級が投げているというだけで、ピッチャーがモーションに入る寸前には、それまで賑やかな応援だったものが、急に静まり返る。
と言っても、完全な静まりではない。どちらかというと、ざわめきを含んでいると言っていいだろう。それはホームチームの応援席も相手チームの応援席も同じで、本当にファンも一球ごとに固唾を飲む試合運びというのは、緊張感に包まれていて、何とも言えない。それを見ていると、
――エース級の投手というのは、毎試合こういう雰囲気で投げているんだ――
と感じた。
エース級と言われる人は成績だけではなく、雰囲気の操作やゲームに対しての責任感の強さも要求されるのだろうと彩香は感じた。
前の試合を見た時は、応援団やその周辺のファンによるお祭り騒ぎに閉口していた彩香だったが、席が違うというだけではなく、選手に近づいただけでここまで感じることができるものかと自分でも不思議に思えてきた。
試合は三イニング目が終了していた。一球ごとのインターバルは、緊張感から長く感じたが、気が付けば三イニングはあっという間に過ぎていた。実際にここまで三十分くらいしか経っていない。実際の試合運びもかなり早かった。
――やっぱり試合がしまっていると、こんなにも時間が早く経つものなのね――
と感じていた。
三イニングが過ぎると、少しイニングのまたぎが時間をかけているようで、緊張感を和らげるにはちょうどよかった。
それまで見ていなかったが、まわりを見てみると、さすがに入場者が増えてきたのか、さっきまで空席が目立っていた内野席も、結構埋まってきていた。気が付かなかったが隣にも男性が据わっていて、彼もグラウンドを注視していた。
彩香がその人を見つめていると、
「ん? 何か?」
と、彼がニッコリと笑ってこちらを見た。
言い方は面倒臭そうだったが、表情は笑っている。どちらが本音なのだろう?
「え、いえ、お隣に人が来られたことに気付きませんでしたので」
というと、
「えっ、そうなんですか? 僕が、失礼しますと言った時、あなたは、こちらを向いて頷いたんですよ」
と言われた。
「えっ?」
彩香には覚えがなかった。
「私がですか?」
「ええ、少し上の空かなとは思いましたが、、まさか無意識だったとは思いませんでした」
と彼がいうので、
「それは失礼しました。あなたは、よく野球を見に来られるんですか?」
と聞くと、
「ええ、仕事が終わってから来ることは結構ありますよ。やはり内野席はいいですよね。選手が近くに見えて、落ち着いて見える」
という彼の言葉に、
「そうですね」
と曖昧に答えたが、まったくその通りであり、考えていることが同じだと思うと、ホッとした気分になった。
「あなたも結構来られるんですか?」
「いえ、私は初めてなんです。この間、友達と外野席に来たのが野球場に来たのが初めてだったんですよ。いきなり外野席に連れていかれると、あの雰囲気にはついていけないと思いました」
「そうですか・外野席というのは、最初から騒ぎたいと思っていく人にはちょうどいいんですが、何も考えずに行くと、圧倒された気分になりますよね。特に野球を見にいくという目的が頭の中で強く持っていると、何をしにきたのか分からなくなると思いますね」
「あなたは、外野席に入ったことは?」
「ありますよ。ただ、一人で行くことはない。友達に誘われていくんですが、その時は最初から騒ぐだけというつもりでいくので、それはそれでいいんですよ」
と彼はまたニッコリと笑った。
「そうですよね。でも、私はもう外野席にはいきたくはないと思います。やはり私にはインパクトが強すぎました」
と彩香がいうと、
「あなたは正直なんですね。僕も本音はそうなんですが、誘われるとまた行くと思います」
と言われて、彩香は一瞬ドキッとして、顔が赤面しているのが分かった。
それを見ながらにこにこ微笑んでいる彼から、まるで心の奥を見透かされている気がしてドキドキしたのだ。
ただ、余計な想像までされては嫌だという思いもあり、正直という言葉がどこまで彩香の中で嬉しいものなのか自分でも分かっていないだけに、変な想像をされるのはつらいと思わせた。
「あ、僕はここから歩いて二十分くらいのところにある建設会社に勤めている者で、名前を下田隆文といいます。営業をしているんですが、なかなか難しいですよね」
と言って、髪を照れ隠しに掻いていた。
そんな彼のベタな反応に、
――この人こそ、嘘がつけない正直者なのかも知れないわ――
と微笑ましく思えた。
「私は棚橋彩香といいます。仕事は普通のOLです」
と、漠然とした答えを返した。
彼が具体的に答えてくれたので、自分ももう少し答えてもよかったのだろうが、彼のペースに引き込まれそうで嫌だった。まだ知り合ったとまでは言えない雰囲気に、どこまで話していいのか、疑問に感じるほどだった。
下田という男は、年齢的には彩香よりも少し若いかも知れない。しっかりして見えるが、まだ学生の雰囲気が残っているような気がするくらいで、一人で野球を見に来るあたり、彩香には少しまだ彼という人間を分かるには早すぎる気がした。
そんな会話をしている間に、試合は続いていた。
気が付けば、四回の攻撃が終わっていて、五回の表に進んでいた。スコアは相変わらずどちらにも点数は入っておらず、まだまだ投手戦の様相を呈していた。
五イニング目のマウンドに向かうエースの姿は、さっきまでとは少し違っているような気がした。
「さっきまでとは少し違う感じがしますね」
というと、
「ほう、分かりますか?」