短編集35(過去作品)
だが、それも金銭的に無理があると思い諦めた。そういう現実的なところのある私に所詮芸術の道など無理なのだ。
セピア色に変色した写真を見ながら私は芸術に浸っていた。時間を忘れて見入っていた。そこには私に対して何かを残したいと思っていた、若かりし頃の父の気持ちが含まれていると感じたからだ。
芸術とは、感情が入らなければ芸術ではない。作者の感じたことをそのまま表現する。それは写真であってもアートであっても、文章であっても同じである。そこには個性が存在し、個性に触れることが芸術を鑑賞することなのだ。
「お父さんは、本当にすごい人だったんだな」
「ええ、そうね。皆いい表情しているわ」
確かにその通りである。表情こそがすべてなのだ。何気ない表情に幸せや苦しさ、人生の喜怒哀楽が沁み込んでいる。楽しい表情だけが、思い出ではない。中には、辛そうな表情もある。そこまで残しているとは、さすがに厳格な性格の父である。
それにしても、晩年こそ人間が丸くなり、喜怒哀楽の表情を示し始めていた父であるが、写真の表情は喜怒哀楽に満ち溢れている。それだけに、私が父の後ろをついて歩いていた印象が、母にはあったのだろう。子供の私には絶対に見せたことのない表情のように感じるのは、あまりにも厳しい顔が印象的だったに違いない。
じっと見ていると、確かに笑った父の顔を思い出すことができる。それもつい最近だったように感じるから不思議だ。写真を見ながら父とはどういう人だったかというのを、今さらながら思い出そうとしている。
「これがお姉さんかな?」
私が小学生の頃、自分に姉がいたことを教えてくれたのが、母だった。私よりも五つ年上の姉、その姉は私が物心つく前に亡くなったらしい。したがって姉の記憶はない。
「うん、やっぱり姉さんだ」
写真を見た時、瞬間的にそう思った。目のあたりなど、母にそっくりだ。よく見ると、唇のあたりも似ているように思う。
「可愛そうなことをした。交通事故だったんだよ」
と、一言姉のことを教えてくれたが、それ以上詳しいことを教えてくれなかった。小学生の低学年だった私だが、それ以上聞いてはいけないと本能で感じていたのだろう。それ以上の記憶はない。
姉のことを話す母の顔は寂しそうだった。初めての子供で、しかも一番可愛い頃だったはず。そのショックは計り知れないものだったに違いない。だが、写真を捨てずにおいているのは、せめてもの母の気持ちが表れているのだろう。
姉の写真は私に比べると少なかった。しかも母と一緒に写っている写真がほとんどで、その中に父が登場することはない。また、一人で写っている写真も希で、よほど母と一緒にいる時間が長かったことを感じさせる。
仏壇の前にある遺影とは、かなり雰囲気が違っている。それは父にも言えることだが、姉の場合は実際に知らないだけに、まるで別人のように見える。もし生きていれば、姉も結婚して、写真に写っているくらいの子供がいても不思議はないと思うと、妙な気がする。
眺めているだけで飽きの来ない時間であった。気がつけば日が沈まんとしている。西の空を赤く染めた夕日に反射するかのように、セピア色の写真が悲しげに写っている。やがてすべてを黒で覆いつくす漆黒の闇が訪れることだろう。
その日を最後に、しばらく写真の入ったクッキーの箱を開けることはなかった。
「茜、じゃあ、行ってくるね」
「ええ、気をつけていってらっしゃい」
結婚して数ヶ月が経った。まだまだ新婚気分で、部屋には甘い空気が漂っている。私にとって、初めてのマンション住まい。妻の茜と一緒だと、自分の家だという感覚が薄いから不思議だ。しかし表札には紛れもなく「本山正志・茜」と書かれている。最初は嬉しくて仕事に出かける時、毎回確認していったものだ。
新婚気分とは、そういうものなのだろう。家具や電化製品もすべてが新品、自分のものも少しはあるが、所詮一人用、ほとんどが新品になるのも当たり前というものだ。
しかも結婚が冬だったこともあり、仕事から帰って来て開けた扉の向こうから漂ってくる暖かさと、食欲をそそる香りは、結婚したことを本当によかったと感じさせてくれる一瞬だった。
「おかえりなさい」
そう言って中から出てきた茜には、真っ赤なエプロンがよく似合う。
「君は真っ赤が似合うよ」
常々、結婚前から私が言い続けてきたことだった。
「そうかしら? あまり言われたことないわ」
と口では言っていたが、まんざらでもなさそうだった。その証拠に彼女が揃えるものには赤が多く、持ってきた服で赤系統が目に付いたのが嬉しかった。きっと赤が好きなのだろう。
「結婚してから、もう三ヶ月が過ぎたのね」
茜がしみじみ言った。
「そうだね。短かったね」
まるでついこの間、新婚旅行から帰ってきた気分だ。お互いに生まれて初めての海外旅行、戸惑いもあったが、それなりに楽しかった。
「うーん、私は長かったような気がするわ」
いずれ落ち着いたらパートにでも出るつもりのようだが、今はまだ専業主婦である。毎日働いてくる私と時間の感じ方が違って当たり前だろう。しかも結婚前までは普通にOLをしていた茜である。急に家庭に入るのだから慣れないことの連続で、時間を長く感じるのも致し方ない。
「ご近所さんとの付き合いにも慣れたかい?」
「ええ、いい人が多いみたいで、結構お話をしたりしますわ」
茜が一番危惧していたことであった。主婦業は慣れれば何とかなるだろうが、近所付き合いだけは、最初にうまくやらないと、時間が経つにつれ、ギクシャクしてくる。それが人間関係というもので、特にマンションの近所付き合いは、皆主婦としての集団意識があるため、仲がいい人と、悪い人への態度が極端だ。それは私の想像よりもはるかにすごいものではないだろうか。
夕食にはいつも、私の好きなものを必ず一品は入れてくれていた。そんな小さな心遣いが、私に茜との結婚を間違いなかったと感じさせてくれる。
「あなた、おいしい?」
「ああ、おいしいよ」
これもいつもの会話である。
私が一口、口にするまで茜は、じっと私の顔を見つめている。茜の料理の腕は私も太鼓判を押せるくらいだと思っている。それだけに、
――そこまで気にしなくてもいいのに――
と感じるのだが、ある意味新妻としての気持ちがそうさせるのだろうと思うと嬉しく感じる。
「よかった」
一言そう言うと、茜は初めて自分の料理に箸をつけるのだ。
食事中は茜がいろいろ話をしてくれる。その日にあったことや、近所の奥さんとの話などであるが、もちろんその中に不愉快な話などなく、食事の時間を団欒として過ごすことができる。
食事の後、暖かいお風呂に入り、一緒にテレビを見る。ワインが好きな私は、茜と一緒にグラスを持って、テレビを見ながらほろ酔い気分になれる時間が好きだった。
――結婚してよかったな――
と、一番感じる時間かも知れない。
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次