短編集35(過去作品)
そこから先はほろ酔い気分も手伝ってか、本格的な夜の時間である。どちらからともなく、ベッドに向かい、火照った身体を重ねたい衝動に駆られるのは、茜も同じことだろう。少し触っただけでも、敏感に蠢く身体すべてが私のものだと思っただけでも、身体の血が逆流するかのような興奮に襲われている。
「正志」
「茜」
結婚してから、結婚前とまったく変わっていないのが、ここからの時間だった。いつも新鮮で、変わりたくないという気持ちの表れなのか、茜は私のことをずっと「正志」と呼ぶ。
ベッドの温もりが身体に纏わりついてくる。茜の身体のきめ細かさを感じているが、指でなぞるたびに、そこだけがザラザラしてくるような感覚に陥るのは気のせいだろうか?
この瞬間だけは他のことを考えたくない。
うちに帰ってきてから、食事をする時に、
「おいしい?」
と聞く茜、食事をしながら満面の笑みでいろいろな話をしてくる茜、テレビを見ながら顔を赤く染める茜、すべてがベッドの中の茜と同一人物だと考えたくないのである。飾り気がなく、今までも、そしてこれからもずっと変わりのない態度であり続けると感じる茜は、私の腕の中ですべてを任せているのだ。
身体の相性というものがあるとすれば、最高の女性である。
私は、学生時代に数人の女性と交際し、もちろん身体の関係もあった。ほとんど相手がベテランで、私が何もしなくともリードしてくれる、そんな関係だった。
――こんな私で彼女たちは満足できるのだろうか――
とも感じたが、
「正志はそれでいいの。母性本能を感じるのよ」
と言われたことがあった。言われたのは一人からだけだったが、他の女性が私を見つめる表情も皆同じだったことから、きっと同じ気持ちであることは間違いない。
「母性本能? 喜んでいいのかな?」
苦笑いをしていたが、私としてはその方が楽だったので、それでもよかった。しかしリードされるのはベッドの中だけである。普段は対等というよりも、私がリードすることが多かった。どこかに行く時の場所も時間も私が決めていた。それが当たり前のようになっていたのだ。
男としてのメンツも保て、楽だと思って、その状況を楽しめたのは、学生時代だったからだろう。卒業すると同時にその時付き合っていた女性とも別れた。自然消滅が多かった私にとって、卒業と同時に別れた彼女は、私からさよならしたのだ。彼女の方はまだ未練があったようだが、新しい生活を始めることで、すべての環境を変えたいと私が望んだことだった。きっと、
「母性本能」
という言葉から逃れたかったのだろう。
母一人、子一人、
――マザーコンプレックスがあるのでは――
と感じたのも、無理のないことだ。
実家の近くのマンションだったが、母が訪ねてくることはほとんどなかった。きっと私たちに気を遣ってくれているのだと思ったが、新婚家庭に遊びに来ても、孫がいるわけでもなく、落ち着かないことを知っているのだろう。それこそ、新婚家庭の温かさに寂しさを思い出させるのがオチである。
「たまには、母さんに顔見せてやろう」
と、私が言うまで茜から言い出すことはない。別に気まずいわけではないが、わざわざ自分から行きたいなどと言い始めることもないのだ。そんな時は、
「ええ、そうね。お母さんの好きなものって何でしたっけ?」
と、ありがたい心遣いを示してくれる。私が言い出さないと成立しない嫁姑の関係であるが、私が中に入っている以上、別に問題はない。
遊びに行くと決まって、最初は仏壇に手を合わせる。線香の香りはいつも感じていたので、実家に帰ってきたと実感できるのである。
「この写真の方は?」
「ああ、これは姉さんだよ」
「この方が……。まだ可愛らしい頃なんですのね」
「僕の記憶の中には、ほとんど出てこないんだ」
姉の話は引越しの時にしたことがあった。詳しいことは自分も知らないので、
「姉がいたらしいんだ」
くらいにしか話していない。
「お姉さんが生きておられれば、あなたには違った人生があったのかも知れませんね」
茜は時々、私がビックリするような発想をする時がある。しかし、そのすべてが理屈に合うことだったり、妙に納得できることだったりするので、そのたびに茜の想像力に感心させられていた。
「そうだね、二人が出会うことはなかったかも知れないね」
「何か不思議よね。出会いって……」
しみじみと話す茜の横顔を見ていると、今まで茜に対して感じたことのない表情に見えてくる。しかし、茜のその表情はまったく知らない表情ではない。仏壇で手を合わしているその横顔、小さい頃に見た母の横顔に見えてくるから不思議だった。
――もし、私が茜と出会ってなかったら――
と、何度考えたことだろう。
今までに付き合った女性で、結婚まで考えたことのある女性はいなかった。ほとんどが学生時代だったので、長く付き合うことがあれば、いずれは結婚ということも考えたに違いないが、学生時代では考えられなかった。
もっと遊んでいたいというわけではない。自分に自信がなかったのだ。結婚ということを考えた時に、「まだ遊びたい」という考えと、「結婚して養っていくだけの自信がない」という考えの二つが思い浮かぶ。私の場合、遊びたいとは思っていなかった。いい人が現われれば、その人一筋である。
学校を卒業し、社会人になってある程度自分に自信がつけば、初めて結婚の二文字を考えるべきなのだ。
だが不安もあった。
――果たしてその時に自分の理想の相手が現われるだろうか――
という思いと、
――それまでに、本当に自分の理想の人を逃してしまうのではないか――
という考えである。
私には後者が怖かった。せっかくの機会をみすみす見逃してしまうのは、恐ろしいことだ。知らぬが仏で片付けられるものなのだろうか?
しかし、そんな危惧はまったく無用だった。私の前に現われた茜、彼女はまさしく私の理想とする女性。従順で、奥ゆかしさがある。そして何よりも知性を感じるところが私を夢中にさせたのだ。
知性というのは、自分でひけらかすものではない。黙っていても、本当の知性を持っている人は身体の奥から溢れ出してくるものだ。会話の端々で感じる知性、私は出会った頃から茜に感じていたに違いない。
さりげない心遣いのうまさが、知性に結びついていると感じる。わざとらしさもなく、すべてが自然で、それが従順さを感じさせるのだろう。
茜に感じた知性は、小さい頃に母に感じたものである。仏壇を拝んでいる横顔、昔の母に感じたことを思い出させたのは、やはり知性に共通点を感じたからだろう。茜を結婚相手に選んだのは、
――昔からずっと知っていたような気がする――
という感覚であり、母を見続けて育ったからに違いない。
かといって、茜にマザーコンプレックスを感じることはない。コンプレックスを感じるようなところが似ているわけではないのだ。
茜は時々私に父のことを尋ねることがある。
「お父さんってどんな方だったの?」
「うん、とにかく厳格な人で、間違ったことは絶対に許せない人だったね」
「例えば、どんな?」
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次