短編集35(過去作品)
沢木は人生における二者択一の時にあまり悩む方ではない。あまり深く考えることをしないのだ。だからといっていつもそうかと言えばそんなこともない。別に深く考える必要もないことを考えてしまうことも往々にしてあるからだ。
高額なもの、例えば家電を選ぶ時などはそれほど悩むことはないのに、千円単位の洋服などを買う時に結構な時間悩むのである。似合う似合わないで悩むのではない。買うかどうかの時点で悩んでしまうのだ。
――やっぱり天邪鬼なのかな?
とも考えるが、高額なものは最初から買うために貯金していたり、ローンを組む計画を立てているので、なかったものだと割り切ることができるからだろう。しかし千円単位のものはそれほど計画していたものではなく、生活費の中から捻出しているので、却って悩んでしまう。そう考えて自分自身を納得させているが、まわりから見ていると、やっぱり変わった性格に見えるに違いない。
ゆっくりと歩き始めた。
池のまわりは完全に森に囲まれていて、ちょっとした要塞を思わせる。きっと正円に近い池なのだろう。どの角度からまわりを見ても同じような光景に見えてしまう。
来る途中に分岐店があった。
右に曲がると森から出て行くようだ。左に曲がるとそのまま池のまわりを歩いていき、怪しげな廃墟屋敷へと辿りつくようになっているようだ。
迷いなどあるはずがない。しかし、その時は何かの胸騒ぎのようなものがあったように思えてならないのだが、それは右を見た時に見えた森の暗さだった。真っ暗な森の向こうに何も見えてこない。これが恐ろしさのようなものを感じさせ、どうしても気になってしまっていた。
今までも迷うことなく分岐点を選んでいたが、本当にもう一方の道が気になっていなかったかといえば、そんなことはない。気になっていたところもあったのだが、自分の信念を信じる一心で、敢えて気にすることをしなかったのだ。きっと、一度迷いが生じてしまえば、それ以降、分岐点に立った時の決断に一切の自信を失ってしまうことになるだろうということを恐れたのだ。
半周してやっとさっき見えていたところまでやってきた。怪しげな廃墟になった屋敷は近づけば近づくほど不気味なものだった。人の気配はおろか、近づけばカビ臭く感じられる。匂いが風に乗って漂っているようだが、それを周りの森緑が消してくれているに違いない。
けんじが行方不明になった例の西洋屋敷を思い出していた。壁のまわりは元々白だったのだろうが、今ではすっかり変色し、ところどころにまだらとなって爛れたようになっている。
近くの森はそれまであまり感じなかった木々についている葉の揺れが一段と激しく感じられた。風をそれほど感じるわけではないが、遠くで聞こえるカラスの声が不気味だ。
カラスは最初一匹だけが鳴いていたが、よく聞いて見ると数羽いるようだった。一匹だけで行動する鳥だと思っていたが群がってきたようだ。
それだけ、ここに人が来ることは稀なのかも知れない。いや、この池という意味ではない。この廃墟屋敷に近づいた人間ということだ。観光案内所では、この場所を綺麗なところだと推薦していたではないか。それほど人が立ち入らない場所だと思えないのだ。
カラスの声を聞いているとやはり思い出すのは夕方だ。ここの光景から夕方を思い出すのは困難を極めた。真っ赤な夕日が当たって、何となくけだるい身体にどこか空腹感があるのが夕方だと思っているからだ。赤という色を想像させるにはあまりにも緑を含めた蒼い色が多すぎる。池の水面ですら、真っ青に見えてくるのだ。
今真っ赤な色が目の前に現れたら、それこそ鮮やかなことだろう。少しずつ小さく見えてくるものがさらに小さく見えてくるように思えて仕方がない。目の焦点が一点に集まっているのだ。
他の観光地では幸子を思い出すことができたのだが、この場所で思い出すことはできない。池を見ている幸子は瞼の裏に浮かぶのだが、廃墟屋敷からはどうしてもイメージが湧いてこない。
ゆっくりと廃墟屋敷を背に、また残りの半周を回ってみる。さっきまでの半周に比べるとかなり涼しく感じていた。風を感じるわけではなく、空気自体に冷たさを感じるのだ。
歩いていると背中に日差しを感じる。振り向きたくないほどの暑さに違いない。
だが、振り向きたくないのはそれだけの理由だろうか?
クーラーの効いた本屋を思い出した。あの時に感じたのは、振り返ってはいけないと言われる「ソドムの街」であった。涼しさはあの時のクーラーのイメージなのだ。
振り返ることもなくまっすぐに歩いている。来た時の半周よりも距離は感じていたが、時間はあっという間である。池の中心を見ながら歩いていると、まったく変わらないまわりの距離に今さらながらの正円を思い起こさせる。
カラスの声も聞こえなくなってきた。風の冷たさでさっきまで掻いていた汗が引いてきて、シャツに纏わりついてくるのは気持ち悪い。体温が急激に下がってくるような感じを覚えると、指先に痺れを感じてきて、
――風邪を引く一歩手前だ――
と思えてくる。頭の感覚が麻痺してくるようで、痛いのだろうが意識がない。意識しないようにしているから歩けるのかも知れない。風邪を引く時は前兆のようなものがあるというが、廃墟屋敷を背にして歩き始めてから、前兆が意識として現れたようだ。
森の入り口に近づいてきた。入ってきた時は眩しくて感じなかったが、地面がそこだけ濡れている。他のところは乾ききって硬くなっているのに、そこだけがまるで粘土質のように濡れている。確かに山に登っている時でも、絶えず濡れているところがある。太陽が当たることもなく、しかも土質が粘土質のために、乾くことがないところ。やはり森のような太陽の光を遮断して、水を吸い込まないような粘土質であればなおさらだ。
これだけベタベタになっているのに、入ってくる時に気付かなかったなど、信じられない。入ってきた時に湿気を感じていたが、今の爽やかな風に湿気を感じることはない。サラサラと木々を揺らす風が爽やかだ。
森の中のトンネルをくぐると駐車場に戻ってきた。セミの声が聞こえてくるが、暑さが戻っているために、耳鳴りのようになっている。まともに聞いていたら意識が朦朧としてくるほどの暑さなのだ。
深くなった森の奥を見ていると、何かが隠れているような不気味さを感じる。
――何か大切なものを忘れているようだ――
そう感じると、頭の中である言葉が思い浮かんだ。
「一本の木を隠すなら森の中」
一つだったら目立つのだが、まわりに同じようなものがあれば決して目立つことはないという意味である。何かを探している時に限って見つからなかったり、目の前にあっても見つからなかったりする現象に似ている。「灯台下暗し」とはそういうことなのだ。
ネコ屋敷のあったY路地を思い出していた。あそこでも
――何か大切なことを忘れているのでは?
と思うことがあった。それはきっといつも感じているのだが意識がないだけで、たまたまネコ屋敷のある場所で、我に返ったように思い出していたに違いない。
――どこかで見たことのあるシチュエーションだ――
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次