短編集35(過去作品)
仕事の休みもそんなにまとめて取れるわけではない。目いっぱいとって、なるべく行ける範囲で計画を立てた。そうなると普通は札幌周辺を考えるのだろうが、あえて函館を選ぶことにした。
そこに自分の期待しているような光景が広がっているとは限らない。しかし少なくとも果てしなく続く一本道を見ることくらいはできるだろう。旅行センターのポスターを見る限りでは、そこまでは期待できそうだ。
学生時代好きだった女の子が函館に行ってみたいと言っていたのを思い出した。あれから十年経ったが、きっと彼女は函館を訪れているに違いない。いつなのか分からないが、その同じ土地に立っていると思っただけで、不思議な気持ちになるに違いない。
函館というと、海をバックに坂の上から見下ろした風景が一番印象的だ。
「私、あの場所に行ってみたいの」
と言っていたが、果たして見ることができただろうか?
天気がいい日でないと見る意味がないとも言っていたが、まさしくその通りだ。雲ひとつなく透き通ったような青い空が果てしなく続いている。そんな光景だからこそ、すべてが被写体として綺麗に残っていたのだ。
名前を幸子と言った彼女は、沢木のことがずっと気になっているようだった。最初、あまりタイプでない幸子のことを気にすることもなかったが、気にされているのを意識し始めると、好きになってしまうのも男の性、次第に幸子以外が見えなくなっていた。透き通った空気の中で、果てしなく遠くが見えそうな空をバックに幸子を見たら、どんなに綺麗に見えるだろう。ずっと想像していたことだった。
飛行機に乗り込んで、気がつくと函館についていた。函館は異国情緒溢れる港町として有名で、ちょこっとした名所を観光するだけで、気分はすっかり北海道に馴染んでしまったような錯覚に陥っていた。
これなら自分の捜し求めているようなものが見つかるように思えた。しかし何を求めているか漠然としていて、実際に目の前にしないと、実感が湧かないだろう。何しろ性格的に自分が実際に見たもの触ったものでないと信じないところがある沢木だからだ。
函館市内は半日で観光し、最初からの目的地へと向かった。そこは、大きな池のあるところで、ちょっと小さな湖という感じのところだという。このあたりではなぜか観光客が少ないらしく、隠れた観光地なのだと旅行センターの女の子が話していた。
「実は私くらいかも知れませんね。ここを推薦するのは。あそこの良さは行った人でないと分かりませんからね」
沢木はこの言葉に反応したのだ。
「ぜひ行きます。ここへの行き方を教えてください」
彼女はネットで調べた地図を渡してくれた。レンタカーで動くことにあるだろうから、自分が運転するイメージを思い浮かべ地図を見ていると、それほど苦になる場所でもなさそうだ。
函館市内から車で約一時間、車を飛ばしていると見えてきた目的の池がある森、そこはまわりを森に囲まれた池なのだ。
雲ひとつない青空に映えるように見えてきた深緑に涼しさを感じていた。
緑がまだらに見えている。風が吹いて木の枝が揺れているようだ。入り口にあたる狭くなった森のゲートのようなところから入っていくとフロントガラスに反射している木々が爽やかに感じられる。舗装もされていない道を少し進むと、その奥に見えてきた湖が日の光を反射させて眩しく見える。
まわりの深緑が鮮やかだっただけに、光っている湖面はさらに眩しく感じるのだろう。表に出た沢木は少し湖面を眺めていた。
やはり少し風があるのか、きめ細かい溝が規則正しく湖面を照らしている。昨日まであれだけ眩しいものを避けたかったのに、北海道に来るだけでこれほど爽やかになれるなんて、日本も狭いようで広いのだと、今さらながらに感じていた。
途中にあるベンチ、湖面を一望できる最高の場所にベンチはあった。
真っ白いベンチ――、そこはまるでまわりの緑や青をさらに深い色として印象付ける効果を感じるところだった。座ってみると、光の反射からなのか、風の爽やかさをさらに深く感じることができる。
ちょうど池の対面には古い屋敷があり、見るからに廃墟だと分かったが、きっと人が住んでいた時はさぞかし綺麗だったのだろう。いつもなら近くまで行ってみようと思うのだろうが、ここではこの場所から見るのが最高だと感じて疑わない。近づいてみようという気にはならなかった。
――初めて見る光景ではないようだ――
どこかの写真で見たのだろうか? しかし、実際に見たり触ったりしたものでないと実感のない沢木にとって、初めてではないという思いは明らかに以前どこかで見たことがある気にさせられるものだった。
自分の目で見ているような気がしない。幻のように見える光景は、実際より小さく見えているように思えてならない。睡魔に襲われている時に感じるボヤけた感覚は、ものを小さく見せるものらしい。それだけに一つ一つが繊細に見えるようで、目を瞑ってはいけないという思いが、少しでも鮮やかに見せようと小さく纏まって見せるようだ。
目の前に広がった光景を写真に収めればさぞかし小さい被写体になるだろう。普通に眺める光景であれば写真にしてしまっても、大きさを実際のままに感じることができるだろうが、目の前の光景は写真で見ればそれだけの広さしか感じないように思える。それだけパノラマを感じさせ、遠近感がハッキリとしている光景に違いない。
――やっぱりどこかの写真で見たのだろうか?
記憶の中に封印されていた湖の光景、今幻のように見えているのは、小さく感じているからだと思えば、過去に見たのが写真だったということで、小ささとともに鮮やかさがある。
――幸子も同じ光景を見たのだろう。幸子ならきっと同じように感じたに違いない――
と感じている沢木だが、彼女に惹かれた理由の一番は、
――お互いの感性が同じで惹きあうところ――
ではないだろうか?
風に揺れている森を見ていると、まるで枝の葉がウェーブの掛かったようで、ところどころ光って見える。ゴルフ場のグリーンに敷き詰められた芝のように、綺麗に頭を刈られているように見える。
目の前で繰り広げられていると思えないほど均整の取れた光景にしばし見とれていた。完全に太陽が山肌を照らしている。緑が映えて鮮やかだ。影になっているところと、まともに日に当たっている場所とでは明らかに違う。
「木を見て森を見ない」
という言葉がある。今目の前の光景はまったく逆で、大きなゾーンから小さなゾーンへとズームアップしながら見ているのだ。
えてして沢木にとって遠くからズームアップしてくる印象が多いことがある。特に綺麗な景色を見ていると、
――以前にも見たことがあるような――
という思いに苛まれるのである。
どちらに焦点を合わせて見ているか分からない時がある。遠近感が微妙に狂い始め、立体感を感じなくなってしまう。それこそが、虚空に左右されることなく見るための第一歩のような気がして仕方がない。
遠くに見える森も近づいてみれば本当に綺麗なまま見れるのだろうか?
沢木は綺麗なものを綺麗だと思えない時がある。つい疑って見たり、天邪鬼になったりすることがあるのだ。
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次