短編集35(過去作品)
それでも紀子が自分の部屋に毎日通ってきてくれることで、紀子の部屋への興味は薄らいでいた。自分の部屋に通ってきてくれる紀子が勝也にとって本当の紀子なのだ。それ以外はプライベートなことで、そこまで詮索してはいけない。
紀子に対しての気持ちは次第に膨らんでくる。離婚した時には、
――自由恋愛がまたできるんだ――
という思いでいっぱいだった。だが、それはすぐ結婚に結びつくものではない。恋愛と結婚は別のものだという意識が強かった。
確かに恋愛の延長に結婚があるのも事実である。好きになった人と結婚したいと思ってもそれは自然なことだ。とにかく自然が一番だと思っている勝也にとって自由という言葉が一番嬉しかった。
嬉しいこともあれば辛いこともある。辛いこと……、それは寂しさだった。普段はそうでもないのだが、時々たまらなく寂しくなってしまう。定期的なもので、ひょっとして生理的なものではないかとも思えた。
身体がまず寂しさを感じるのだ。楽しいことばかり考えていた反動は、身体に寂しさを思い出させる。男性には分からないが、女性の月のものと同じではないか。バイオリズムの中でも身体が一番正直に違いない。
紀子の存在は寂しさを一気に忘れさせてくれるものだった。積極的なところもあれば、従順なところもある。まさしく痒いところに手が届く存在だった。
おまけに最近は仕事でのストレスも溜まってきている。
「独り者はいいよな、気楽で」
と言われたが、浮気一つしたこともなく家族のためを思って頑張ってきた勝也にとってその言葉はショックだった。まるで嘲笑っているかのような表情に思わず睨み返したが、それを相手は本気で睨み返したと思っていないかも知れない。
その男は細面で、真面目そうに見えるが、実際は結構遊んでいるらしい。もちろん、結婚して子供もいる。だが、積極的に女性に話しかける方で、最初のインパクトに爽やかさがあることから、女性との付き合いもそれなりのようだ。
――こんなやつに何が分かる――
相手にしないのが一番だ。
会社にいて仕事をしている時が、離婚前とまったく変わっていないところでもあった。だが、頑張ってこれたのも家庭があるからと思っていたので、離婚して仕事を続けていけるかという不安もあった。だが、仕事をしている時は思ったより寂しさを忘れることができ、却って仕事が終わって一人になった時が一番辛かったりする。
暗く冷たい、誰もいないと分かっている部屋に帰るのは苦痛だった。それが知らず知らずにストレスとして溜まってきているようだ。
紀子が通ってきてくれるようになってストレスは少し和らいだ。しかし、ついこの間までは、
――この人のために仕事を頑張っているんだ――
と思っていた「この人」、それが違う人になってしまった。どうしても忘れられない女房との思い出が今度は仕事でのストレスとして引き戻される。それが勝也には辛かった。
――この思いはきっと誰にも分からないだろうな――
離婚経験者で、同じように彼女ができていつも部屋で待っていてくれる人がいたとしても、きっと感じ方は違っていることだろう。
――自分が人と比べて変わっている――
と感じるところは、そんなところに由来しているのかも知れない。
「温泉にでも行こうか」
と誘いかけたのも、仕事でのストレスを解消したいと思ったからだ。忘れたいことがあると、どこかに出かけたくなるのは学生時代からのこと。
「男のくせに傷心旅行か?」
と嘲笑われてもいい。気分転換できればそれでいいと思っていた。それは温泉でなくともどこでもよかった。自分の知っている人が誰もいないところ、そして自分を知っている人が誰もいないところ、そんなところを求めていた。
行き先なんて決めていない。出かけるその日の方向だけ決めておいて、その後は気分任せ。そこで出会った相手と気が合えば、その人と行動を共にすることもある。それが気分転換だと思っていた。
しかし、誰とも出会わないことも少なくはない。そんな時感じるのは、
――結局どこに行っても何の変化もないんだ――
という思いだった。あdが、それでも旅行に出かけて損をしたとは思っていない。帰ってくる頃には寂しさが募ってくるのだが、その寂しさは出かける時に感じたものとは違っている。
――旅行に出かけて得たものは思い出だけだ――
と思うが、出かける前とどこかが違っている。何かを期待する気持ちが心の中に燻っているように思える。ゾクゾクするような感覚、これこそが気分転換の中で得た最大の感覚なのだ。
後から思い起こすと、その時々で何かが変わっていったことに気付く。旅に出ることは後から思い起こしてやっと分かる何かを掴むことでもあった。
紀子は喜んでいた。
「一緒にあなたとどこかに行けるなんて夢のようだわ。それも温泉。私、温泉って大好きなの」
大人のあどけなさから、子供の顔に返った瞬間だった。同じあどけなさでもこれほど違うとは想像もしていなかったが、ほのかに赤みを帯びた顔は、田舎娘の純朴さにも似ていた。
旅行先の候補は最初から決めていた。紀子が現れる前から決まっていたといってもいい。離婚という言葉がちらつきながらも、
――そんなことにはならないだろう――
と、まだ修復に淡い期待を掛けながら不安に怯えていた頃に寄った本屋で見かけた旅行ガイドに載っていたのが、今回行ってみようと思った温泉だった。
旅行ガイドを見ていた時は、女房と一緒に行くことを想像していたが、離婚というのが現実味を帯びてくるようになっても、温泉のことだけは頭から離れなかった。
その時には女房との温泉旅行のことは頭にはなく、一人で行くことを想像していたものだ。
離婚してからもずっと同じで、紀子が現れてからもしばらくは一人で行くことを想像していた。
紀子との旅行を想像しなかったのはなぜだろう?
紀子の部屋を訪れようとした時に見た、目の前に広がったY字路が引っかかっている。あの時にどちらに行こうかをもう少し考えていれば、旅行のイメージも膨らんだかも知れない。そんなことを考えていた。
旅行に出かける日まで、紀子との旅行がイメージできなかった。人と旅行に出かけることをあまりイメージしたこともなく、今まで女房とだけの旅行しか想像したことがなかったのも考えてみれば不思議だった。
きっと一人旅が好きで、旅先で友達を作ることを旅行だと思っていたからだろう。小さい頃からよく親に旅行は連れていってもらったが、好きなことができないと思っていた。親とすれば好きなようにさせていたのかも知れないが、自分で思ったとおりの行動ができる旅行を夢見るようになったのは、テレビドラマの影響だったのかも知れない。
女房との新婚旅行、これだけが自分の好きにできた旅行だった。
――女房が自分の決めた旅行に逆らうはずがない――
思い込みにすぎなかったが、女房はそんな女だった。成田離婚という言葉が流行って久しいが、そんなことは自分には関係ないと思っていた勝也だった。
作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次