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短編集35(過去作品)

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 土曜日の朝、久しぶりに早く起きた。あまり熟睡できなかったのは、気持ちが高ぶっていたからに違いない。旅行に出かけるのも久しぶり、しかもいつも一人旅なのに、今回は最初から連れがいる。
 昨日、床に入るまではそれほど気持ちの高ぶりはなかった。今までの旅行の目的の半分は出会いを求めることだったので、最初から楽しみの半分はないものだと思っていたからだ。
 だが、夫婦水入らずの旅行を味わいたかったのも事実、それは叶わなかったが、女性と二人で出かける旅もまた一興、前日の夜になって急に気持ちが高ぶってきたのだ。
 旅行のために前の日眠れないなど、小学生以来である。乗り物に乗るのが好きだったので、新幹線での旅行ともなると、前の日の気持ちの高ぶりは相当なものだった。
 今は新幹線というよりも、ローカル列車にゆっくりと揺られる旅の方が好きだが、
――そんなに歳を取ったのかな――
 と感じた。
 テレビの旅行番組など見たこともなかったが、最近では自然に見入っている。日曜日の午前中など、よくテレビをつけてボーっとしていることが多いが、そんな時は紀子も付き合ってくれる。
「このまま時が止まってしまえばいいのにね」
 列車の車窓から自然の大パノラマが映し出された時、紀子が呟いた言葉だった。勝也は
スクリーンと化した車窓を見ながら、
「確かにそうだけど、このまま車窓が流れてどこかに出ることを期待している自分がいるんだ。どこかの都会なんだろうけど、どんなところに出てくるか、いつも想像しているんだ」
 と答えた。
「そうね。必ず夢は覚めるものですものね。覚めないと、そのままになってしまうものね。そう、あなたの言うとおりだわ」
 と、消え入りそうになっていた声だったが、急に何かを思い出したように自分に言い聞かせているようだった。
 今回の温泉も山間にあるところで、列車の駅はあるが、旅館もいくつかしかなく、ガイドブックにもそれほど大きく取り上げられてはいなかった。
 もっともそんなところを探していたのであって、ゆっくりしたいというのが目的だからである。出会いが目的であれば、もっと賑やかなところにするのだろうが、離婚してからというもの、寂しさに慣れてしまったような不思議な現象である。
 列車が谷間の中腹を走り始めた。左側には山が聳えていて、右側の下の方には川が流れている。
――初めて来たような気がしないな――
 と感じていたが、対面に座っている紀子も窓に顔を近づけて、川の方を見下ろしている。
 その目は真剣に見える。彼女も初めてだとは思っていないのだろうか。好奇に満ちた目で見ていたが、次第に身体が小刻みに震えているようにも見える。
「高いところを走っているので、少し気持ち悪いかな?」
「そうね。でもそれよりも、この景色、初めてって感じがしないのよ」
「僕もなんだ。あまり田舎へ来ることはないので、こんな風景はあまり記憶にはないんだけどね」
「だからなのかも知れないわね。数少ない記憶の中に似たような光景があれば、それは印象深いものよ」
 と言いながら、まるで自分に言い聞かせるように頷いている。
「私も、実はあなたを最初に見た時、初めてって感じがしなかったの。でも、今までの知り合い男性にはあなたのような真面目な雰囲気の人は少なかったわ。前の亭主も少し遊び人っぽかったしね」
「真面目に見えるかい?」
「ええ、とっても」
 真面目に見えると言われたのは女房と紀子だけだった。真面目に見えると言われてその気になって付き合い始めたのが女房だった。ずっと同じイメージで見てくれていたと思っていたがどうなのだろう。今となっては分からない。
「僕のどこを一番気に入ったんだい?」
 と結婚してから女房に聞いたことがあった。
「どこなのかしらね。前に一度言ったことがあるのに、あなたは覚えていないのね」
 付き合っている頃は有頂天だったこともあって、意外と一言一言を覚えているわけではない。その点女房は結構覚えているようで、そのあたりが男と女の違いなのかも知れない。
 同じことを紀子にも聞いた。紀子もお茶を濁すかのように答えない。そしてやはり以前に一度言ったはずだという答えが返ってきたが、言われても思い出せないのは女房の時と同じだった。
――どうしてなんだろう――
 意識が薄いから? それとも有頂天になると他が見えない? きっとどちらもなのだろう。
 列車を降りてからは宿まで一本道、この道にも、
――初めて来たような気がしない――
 という思いにさせられた。険しい山道を想像していたが、思ったより道も広く、歩いていた時間よりも、実際は短く感じた。
 宿に着いてから待望の温泉に入ると、それまでの仕事でのストレスがまるでウソのように洗い流された気がするのか気のせいだろうか。それほど、まわりの光景は自分たちの住んでいる世知辛い世の中とは違った別世界に見える。
 その夜、紀子を抱いたことはいうまでもないが、それまでの時間があっという間だったにもかかわらず、布団の中での時間が長く感じられた。
 静かな部屋に吐息が漏れる。次第に荒くなってくる息遣いを感じながら、勝也も次第に高まってくる。今までに何度も抱いたはずの紀子の身体だが、まるで初めて抱くような新鮮さがあった。というよりも、紀子の中は硬く狭く、まるで未知の世界を開拓しているようだった。それだけに時間も掛かったような感覚があるのだろう。
 気がつけば眠っていたようで、目が覚めれば隣に寝ているはずの紀子の姿がない。どうやら散歩に出かけたようだ。布団は綺麗に片付けられていて、浴衣を着たまま出かけている。
 勝也も浴衣に上着を羽織って紀子の後を追った。風が強い朝だが、冷たさをなぜか感じない。
――まだ夢の続きを見ているのだろうか――
 紀子が道の途中で立ちすくんでいる。その先に見せるのはY字路になっている道で、どちらに行こうか迷っている素振りもなく、ただ立ち尽くしているだけだ。
――紀子の腹は決まっているんだな――
 勝手な想像が頭を巡る。それは紀子の背中が語りかけてくるように感じる。
 猫の雰囲気は孤立無援の紀子を表している。それは紀子の全体像であって、従順で尽くす女というイメージは、後から作られたものである。
 それはベッドの中でも感じていたことだった。相手に奉仕する気持ちが強く、男の感じるツボというものも心得ている。
――一体どこで覚えたのだろう――
 と感じるほどであったが、そこに真実があったのだ。その真実を隠そうとすればするほど、普段の紀子は従順になってくる。ぎこちなさを打ち消そうとするからだ。
 きっと離婚して苦労をしたに違いない。その時々にY字路が存在し、どちらに行こうか迷っていたはずだ。だが、今の紀子は男に奉仕する仕事からも解放され、自由に生きる道を見つけたのだ。目の前に広がるY字路も、すでにどちらに進むか決めているはずだ。
 きっと勝也はこれからもそんな紀子の後姿を見つめながら暮らしていくことになるのだと感じていた……。

                (  完  )




作品名:短編集35(過去作品) 作家名:森本晃次